化学と歴史のネタ帳

身近にひそむ化学と歴史を,高校までの知識をベースに解説する化学史系ブログです.

消火のしくみ(6):ケミカル

火災の消火には,化学反応を用いることも有効です.


どのような反応で火を消すのでしょうか?


粉末状,液体状の薬剤について,それぞれ消火のしくみと歴史をみていきましょう.




消火のしくみ(1):水
消火のしくみ(2):スプリンクラーの歴史
消火のしくみ(3):二酸化炭素
消火のしくみ(4):ハロン
消火のしくみ(5):泡
消火のしくみ(6):ケミカル

1.ドライケミカル

ドライケミカルは粒径10-75 μmの粉末で,不活性ガスとともに炎に噴射され,消火効果を発揮します.


ドライケミカルとして用いられるのは,炭酸水素ナトリウムNaHCO3,炭酸水素カリウムKHCO3,塩化カリウムKCl,そしてリン酸二水素アンモニウムNH4H2PO4などがあります.


NaHCO3はドライケミカルとしては最初に使用され,その後タンパク質系の泡消火薬剤とも一緒につかえるよう改良されました.NaHCO3は当初,熱分解により二酸化炭素や水蒸気を放出し,これが酸素を希釈したり吸熱することで消火するのだと考えられていました.
 \mathrm{2NaHCO_3 \longrightarrow Na_2CO_3 + CO_2 + H_2O}

しかしながら,消火効果の高さを考えるとどうやらこれがメインというわけではなさそうです.


そこで連鎖反応の阻害によるしくみが考えられています.
 \mathrm{2NaHCO_3 \longrightarrow Na_2CO_3 + CO_2 + H_2O}
 \mathrm{Na_2CO_3 \longrightarrow Na_2O + CO_2}
 \mathrm{Na_2O + OH + H \longrightarrow 2NaOH}

3番目の式で,燃焼で重要な連鎖反応に関与するOHやHを消費し,連鎖反応を阻害しています.
【参考】消火のしくみ(1):水


NaHCO3色煙を発生させる時の減熱消炎剤としても使われたことを以前紹介しました.原理はほぼ同じです.
【参考】花火のしくみ(8):煙


KHCO3も同様に働くと考えられています.Purple Kなどの有名な消火薬剤にも含まれており,水成膜泡消火薬剤と併用することが可能です.


NaHCO3やKHCO3は水に溶けると塩基性をしめします*1.このことを活用して調理油など可燃性液体の火災につかわれたこともあります.しくみについては後ほど紹介します.


KClは水に溶けると中性をしめし,タンパク質系の泡消火薬剤といっしょにつかえるように開発されました*2Super Kと呼ばれる消火薬剤に含まれています.似た化合物であるNaClは,ダイナマイトの減熱消炎剤として使われました.消火後に金属を腐食する可能性があるのが欠点です.


NH4H2PO4は水に溶けると酸性をしめし,いろんなタイプの火災に使用することができます.ABC消火剤として有名です.マッチの防火剤にもつかわれていますね.NH4H2PO4は連鎖反応を阻害することで消火すると考えられています.あらためて,しくみをみてみましょう.


NH4H2PO4は熱によりリン酸H3PO4とNH3に分解します.
 \mathrm{NH_4H_2PO_4 \longrightarrow H_3PO_4 + NH_3}

H3PO4連続的に脱水され,無水リン酸P2O5にまでなります.
 \mathrm{2H_3PO_4 \longrightarrow H_4P_2O_7+ H_2O}
 \mathrm{H_4P_2O_7 \longrightarrow 2HPO_3 + H_2O}
 \mathrm{2HPO_3 \longrightarrow P_2O_5 + H_2O}

このように熱による分解や脱水により,炎の温度が下がります


また一方で,熱分解によって生じたNH3は,炎中のOHと反応し,燃焼反応の進行を抑えます.
 \mathrm{NH_3 + 5OH \longrightarrow NO + 4H_2O}


このように,NH4H2PO4を用いた粉末消火剤は炎の冷却や燃焼反応の阻害により速効的な消炎作用があり,様々な火災に対して有効であることが確認されています.また,炎の温度付近ではメタリン酸に変換され固体表面に難燃性の層をつくることがしられていますので,再び着火するのを防ぐ効果も期待できます.


しかしながら酸性であるため,噴射箇所を腐食しやすいという欠点があります.電気系統についても,生成したリン酸が吸湿性が高いことからショートの原因となり,損傷を与えてしまう可能性があります.

2.ドライケミカルの歴史

化学物質を活用した消火の歴史について,すこしみていきましょう.
はじめは,水溶液の形で用いられました*3


19世紀前後のイギリスでは,火事はそこら中でしょっちゅう発生しており,火事を見物するのが一種の娯楽ともなっていました.


当時の消火活動は火災保険会社に安賃金で雇われた人たちによって行われており,人命救助というよりもっぱら,保険のかかっている財産を守るために行われていました.装備品も簡素なもので,バケツの水か,近ければ川の水が使われていました.

George Manby (1765-1854)

エディンバラの火事で凄惨な現場をみたGeorge Manby (1765-1854)は大変ショックだったようで,やがてどうやったら効率的に消火できるかということを考え始めます.試行錯誤の末,1818年には”Extincteur”と呼ばれる携帯消火器を発明しました.


Extincteurの中にはK2CO3水溶液が入っていました.彼によれば,ただの水よりも40倍消火能に優れていたようです.1820年代後半には,マイケル・ファラデーに招待されロンドンで消火器についての講義も行っています.ビッグ・ビジネスにはつながらなかったようですが,携帯消火器の発明者として名を残しました.


1866年には,フランスのFrancois CarlierNaHCO3水溶液を使った消火器を開発します.消化時に酒石酸NaHCO3を反応させ,生成した二酸化炭素と水を噴射するしくみでした.
 \mathrm{2NaHCO_3 + C_4H_6O_6 \longrightarrow Na_2C_4H_4O_6+ 2H_2O + 2CO_2}

1881年にはH2SO4とNaHCO3の反応も活用されます.
 \mathrm{2NaHCO_3 + H_2SO_4 \longrightarrow Na_2SO_4 + 2H_2O + 2CO_2}

By Attribution details., CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=41187966

その後,1900年前後にかけて粉末のNaHCO3自体も消火に使われるようになります.しかしながら粉末のNaHCO3吸湿性があり湿気てしまうのが問題でした.


そこで1928年,D.J. Blockはステアリン酸マグネシウムを添加することで湿気ないように保管することに成功します.これにより,ドライケミカルの携帯消火器が世に出回りはじめます.


1950年代から1960年代にかけて様々なドライケミカルが開発されます.1950年代,ドイツではNH4H2PO4をベースとした,のちにABC消火剤として知られる消火剤が開発されています.A火災(一般可燃物)やB(引火性液体), C火災(電気機器)にもつかえる多目的消火剤で,現在でも使われています.


また,同時期にアメリカではKHCO3をベースとしたPurple Kが開発されています.こちらは水成膜泡と併用して使う目的で開発され,B, C火災に使用可能です.1960年代に入ると,KClをベースとしたSuper Kがタンパク泡と併用する目的で開発されます.こちらもB, C火災に使用可能です.


この時期に開発されたドライケミカルは,現在の粉末消火薬剤の基本となっています.

3.ウェットケミカル

レストランなどでの厨房には,高温の油,電気機器,ガス,一般可燃物などが混在しており,火災が発生すると消火が大変厳しいです*4.1950年代までは二酸化炭素ガスによる消火システムが設置されていましたが,完全な消火は難しいという問題がありました.


そこで1960年代に入ると,NaHCO3やKHCO3など,塩基性ドライケミカルが使われるようになりました.


調理油は,脂肪酸グリセリンエステル結合したトリグリセリドが主に含まれています.トリグリセリドは塩基性条件下ではグリセリン脂肪酸加水分解します.また,高温でも加水分解するようです.加水分解で生成した脂肪酸は,K+イオンやNa+イオンとのを形成します(けん化).これは石けんの主要構成分子と同じで,石けんをつくるときもこの反応がよくつかわれます.


したがって,ドライケミカルを燃えている調理油に噴射すると石けん分子が生成します.これにより泡が大量に生成し,泡の層で空気を遮断し,調理油の火災を消火できます.


この頃の調理油は,動物性油脂がよく使われていました.動物性油脂はもともと遊離脂肪酸を多く含み,高温で加水分解しやすいそうです.したがって燃焼中の油脂中には遊離脂肪酸が多く存在し,石鹸分子を大量に生成し泡の層をつくりだすことができます.このような理由から,ドライケミカルは動物性油脂によるキッチン火災には有効でした.


一方で1960年代以降は,健康志向もあり徐々に世界的に植物性油脂が使われるようになります.植物性油脂の油は発火点がだいたい360℃と,動物性の脂(発火点が約300℃)よりも高く,火災時には動物性油脂よりも消火しづらくなります


また,植物性油脂は不飽和脂肪酸が多く含まれており,高温で加水分解しづらいそうです.そのため動物性油脂の場合と比較すると,燃えている油脂中には遊離脂肪酸はあまり含まれていません.したがって泡の層がなかなか作り出せず,消火が困難です.


そこで採用されたのがウェットケミカルです.

By Firetech117 - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=49289070

ウェットケミカルは通常炭酸カリウム,酢酸カリウムクエン酸カリウムなどの塩基性水溶液です.フェノールフタレインやリン酸などが一緒に加えられることもあります.ものによっては,pHが13前後のものもあります.


ウェットケミカルは塩基性かつ水が大量に含まれていますから,燃えている油脂に噴射したとき,効率よくトリグリセリドを加水分解し,石けん分子を生成させることができます.これにより泡の層をつくり,空気を遮断することができます.また水分が多く含まれていますので,これにより熱を奪うことも期待できます.


電気機器が多くある場所には使えませんが,厨房においては効果的な消火手段として設置されているところが多いようです.日本では強化液消火器などにつかわれています.

4.まとめ

ドライケミカル,ウェットケミカルの消火には,今まで紹介した色んな消火方法のしくみが使われていましたね.


学校や職場に設置してある消火器にはこれらが使われていることが多いので,見かけたら説明書きを見てみてみると面白いかもしれません.


これまで消火についてみてきましたが,金属火災や放射性物質を伴う火災についてはちょっと専門的すぎるかな?と思いましたので割愛したいと思います.ご興味のある方は,Fire protection handbookなどでチェックしてみてください.

問題

Q. 油脂A(ヨウ素価65.5)と油脂B(ヨウ素価132.5)について,加熱時の酸価を空気接触面積を変えて測定したところ,結果は図のようになった.

結果から導くことのできる仮説は次の選択肢のうちどれか?
ただし,酸価とは油脂1グラム中に存在する遊離脂肪酸を中和するのに必要な水酸化カリウムのミリグラム数である.
また,油脂A,Bの分子量はほぼ等しい.

ア.飽和脂肪酸を含むトリグリセリドは,熱酸化によりトリグリセリドの加水分解を促進する物質を生成しやすい.
イ.飽和脂肪酸を含むトリグリセリドは,不飽和脂肪酸を含むトリグリセリドよりも熱酸化されやすい.
ウ.不飽和脂肪酸を含むトリグリセリドは,飽和脂肪酸を含むトリグリセリドよりも熱酸化されやすい.
エ.不飽和脂肪酸を含むトリグリセリドは,熱酸化によりトリグリセリドの加水分解を促進する物質を生成しやすい.



A.ア
油脂Bのほうが油脂Aよりもヨウ素価が高く,二重結合が多い.
本グラフからわかるのは,脂肪酸生成により上昇する酸価,すなわち加水分解の程度.
油脂Aで熱酸化を妨げたときに加水分解効率が低下するので,熱酸化時に加水分解を促進する物質が生成していたと考えられる.
一方で油脂Bでは熱酸化を妨げたときに上昇するので,熱酸化時には加水分解を抑制する物質が生成していたと考えられる.


ちなみに油脂Aは大豆硬化油,油脂Bは大豆油です.

参考文献

“Fire protection handbook. 20th edition” A. E. Cote, National Fire Protection Association (2008).
『食品科学便覧』共立出版 (1978).
"Fire-extinguishing material" D.J. Block, US1793420A.
M. Pitts, et al. "OIL FOR FOOD: THE GLOBAL STORY OF EDIBLE LIPIDS" Journal of World-Systems Research, 13, 12-32 (2007).
大田 静行ら『食用油脂の加水分解』油化学,26, 8-22 (1977).
湯木 悦二『フライ油の問題点とその対策』油化学,28, 78-83 (1979).


目次 - 化学と歴史のネタ帳

*1:水溶液の場合,特にアルカリ性とよぶこともあります.

*2:消火機構はKHCO3ハロンと似ているのかもしれませんが,詳しく調べた研究を見つけられませんでした.

*3:アンブローズ・ゴドフリーによる水爆弾も,塩化アンモニウム水溶液を使っていましたのでここに含めても良かったかもしれません

*4:特に調理油による火災をK火災として分類することがあります.