前回紹介した,ヘリウムを吸うと声が高く歪むドナルドダック効果ですが,実はアメリカ海軍で発見されたものです.
【参考】ヘリウム(2):声が変になるのはなぜ?
どんな経緯でみつかったのでしょうか?
今回は,ヘリウムガスと潜水の密接な関わりをみていきましょう.
ヘリウム(1):風船に使うのはなぜ?
ヘリウム(2):声が変になるのはなぜ?
ヘリウム(3):潜水とヘリウム
1.潜水の歴史
潜水の歴史はかなり古く,約5000年前にはすでに30 m程度まで潜水していたのではないかと考えられています.食料などの採集やサルベージが目的だったとされています.古代ギリシャでは沈んだ財宝の回収や軍事作戦(敵船の錨のケーブルを切る,船体に穴を開ける)などでも潜水が活躍していたようです.
初期の潜水は単純に息を止めて潜るだけでしたので,当然深さや活動時間に限界があります.解決策として一見合理的にみえるのは中空のチューブを使って水上の空気を届ける方法ですが,実用的ではありません.水深1 mでの水圧は10 kPaですから胸には約100 kgの重さがかかるのと同等で,その状態でチューブから地上の空気を吸うのは困難を極めます.
実用的な潜水用の装置としては,1500-1800年にかけて開発された潜水鐘(diving bell)と呼ばれるものが挙げられます.原理はシンプルで,大きくて重く頑丈な鐘を水底に沈め,鐘のなかに残っている空気を活用するものです.
鐘のなかの空気をつかうだけでは滞在時間に限界はありますが,バケツなどで新鮮な空気を供給することで,滞在時間を伸ばすこともできます.実際,1716年にはハレー彗星で有名なエドモンド・ハレーがテムズ川の水深20 mで4時間過ごすことに成功しました.
潜水鐘にかわって開発されたのが,フランス語で"大きな箱"と意味するケーソン(Caisson)です.ケーソンは底が開いており,ケーソン内部の気圧を高くすることで水の侵入を防いでいます.
内部では数人が同時に作業でき,これにより水底での橋脚やトンネルの工事などが可能になりました.ニューヨークのブルックリン橋建設などでも活躍しました.
このよつにケーソンは大活躍するのですが,徐々に作業員が地上に戻ってきた後にめまいや関節痛,腹痛,呼吸困難等の症状を訴えるケースが目立ってきました.ときには死亡する場合もありました.原因はまったくの不明でした.不思議なことに,作業中は体調不良は感じなかったようです.このような症状は,ケーソン病(Caisson disease)と呼ばれました.
原因が特定されたのは1878年のことでした.フランスの生理学者であるポール・ベール(1833-1886)は,気圧が高い状態で呼吸すると血液に窒素が溶け込みやすくなることに気づきました.
この状態で気圧が一気に元に戻ると,血液中に溶解していた窒素が気化して血管内に泡が生じてしまいます.この泡がどこかでつまることで重大な障害を引き起こしますのではないかと考えました.このことから,ケーソン病は減圧症とも呼ばれるようになりました.
この現象は,高校で習うヘンリーの法則からも考えることができます.ヘンリーの法則は「揮発性の溶質を含む希薄溶液が気相と平衡にあるときには、気相内の溶質の分圧pは溶液中の濃度cに比例する」という法則です.つまり今回の条件にあてはめれば,「圧力が高くなると気体がもっと溶けるよ」という話です.厳密には理想希薄溶液についてのみ成立する話ではありますが,水圧の大きい深海中で窒素が血液中に溶け込むのも納得できるかと思います.
ベールは上記知見から急激な気圧減少を避けるため,ケーソンの作業員に対して作業終了後はゆっくり水上に戻るよう提案しました.この方法はすぐに有効性が確認され,ケーソンに気圧調整のための減圧室が併設されるようになりました.1879年にハドソン川の地下鉄用トンネル建設時に使用されたケーソンには,そのような構造の記録があります.
これにより潜水時の問題はすべてクリアーされたかにみえました.しかしそう簡単にはいきませんでした.
2.もっと深くへ!
時代をちょっとさかのぼりましょう.潜水鐘やケーソンが使われていたのと同じ時期に,潜水服も開発されていました.
1715年には大英帝国のジョン・レスブリッジ(1675-1759)が小窓のついた樽状の潜水服(?)が発明されました.少々不格好でしたが,増加していた難破船の救出・回収作業において満足な作業ができていたようです.
1749年の記事によれば,水深18mでは問題なく作業が可能で,水深22 mほどでは34分以内であれば作業できたようです.その後も似たデザインの装置が開発されていきましたが,技術革新が起きたのは手動ポンプにより新鮮な空気を送り出すことができるようになってからです.
1823年,火災時に煙の中でも作業できるような消防服がジョン・ディーン(1796-1848),チャールズ・ディーン(1796–1848)によって開発されます.そして1828年には消防服の技術を転用し,ヘルメットつき潜水服が開発されました.ヘルメット内部には地上からホースを介して空気が供給されました.
一方で,ヘルメットとスーツの間は密閉されていませんでした.ダイバーが直立していれば問題はなかったのですが,傾くと水が一気にヘルメットに入ってきてしまいました.そこでディーンらはこのような事故を防ぐため,1836年にダイバーマニュアルを発行します.もしかしたらこれが最初のダイバーマニュアルだったかもしれません.
1840年までに様々な潜水服が開発されました.オーガスタス・シーベ(1788-1872)による潜水服もその一つです.彼の潜水服はDeanesによる潜水服を改良してヘルメットとスーツのつなぎ目を密閉したものでした.
当時,解体され水中に沈んでいた戦列艦ロイヤル・ジョージ*1の回収にあたっていたCharles William Pasley大佐 (1780-1861)は,シーベの潜水服に目をつけました.そこで他の潜水服とともに実地テストを行いましあ.テストは一日に6-7時間水深20 mの深さで潜水作業を実施するというもので,シーベの潜水服の有効性が確認されました.
1878年以降,ベールの助言をもとにした減圧方法の確立により潜水服による潜水作業は水深30-40 mまで可能になりました.
しかしこの深さで作業していると,突然失神してしまうケースがでてきました.浮上時にあらわれるケーソン病の症状とは明らかに違う症状でした.
イギリスの生理学者ジョン・スコット・ホールデン(1860-1936)は1905-1907年に研究を行い,原因の究明に取り掛かりました.その結果,換気が不十分だとヘルメット内に二酸化炭素がたまり,障害を引き起こしているとの結論に達しました.
そこで換気を十分に行うための空気の流量を特定し,また減圧方法も改良しました.これにより水深60 mまで潜水できるようになりました.
これですべて解決したかにみえましたが,実際にはさらに奇妙な症状があらわれました.水深60 mほどで作業していると,突然酔っ払ったようになり,潜水の目的までわからなくなってしまうようになったのです.深海の狂喜(rapture of the deep)です.
研究が進むと,深海の狂喜はどうやら窒素ガスが高圧下で血液に溶け,これが麻酔作用をもっているために引き起こされるということがわかってきました.
窒素ガスの麻酔作用は大気圧下では問題ないのですが,水深60 mともなると地上の約7倍の圧力がかかりますので,溶けた窒素ガスによる麻酔作用が大きな問題となるようです.そのため,深海の狂喜は別名「窒素酔い」とも呼ばれるようになりました.
3.窒素酔いの克服
窒素ガスが問題であれば100%酸素ガスにすればいいんじゃないかと考える人もいるかもしれませんが,それは大変危険です.
スキューバダイビングのパイオニアであるヘンリー・フルース(1851-1933)は,1876年から1878年にかけてクローズド・サーキット(呼気をリサイクルし,水中に泡がでてこないタイプ)のスキューバ用装置を販売します.このとき使われていたのが100%酸素ガスでした.
浅い水中であれば目立った問題はなかったようですが,深い水中で水圧がかかった状態だと,けいれん,もしくは死に至ることがわかりました.実際に,減圧方法を確立したポール・ベールがマウスを用いた実験で示しました.
1899年にはJ.Lorrain Smith (1862-1931) がけいれんまでいかないような圧力下でも長期間100%酸素を吸っていると重度の肺炎を引き起こすことを発見しました.一般には周知されなかったようですが,第二次世界大戦ころになりようやく危険性が認識されていきました.
ではどうしたらよいのでしょうか?ここで出てきたのが,窒素ガスを別のガスに交換するアイデアです.
イギリス生まれのエリフ・トムソン(1853-1937)はアメリカで活躍した発明家で,700以上の特許を取得し電気工学分野において大きく貢献しています.そんな多才な発明家であるトムソンは,窒素酔いの克服にも大きく貢献しました.
彼は,ヘリウムガスは窒素ガスのかわりに潜水時に使用できるのではないかと考えました.1919年当時,ヘリウムガスの国際市場を独占していたのはアメリカ鉱山局だったので,彼はヘリウム-酸素混合ガスを潜水時に使用するアイデアを鉱山局に提案しました.
【参考】ヘリウム(1):風船に使うのはなぜ?
そして1924年,アメリカ海軍と鉱山局は彼の研究支援を決定し,ペンシルバニア州のピッツバーグで最初の試験を行いました.
試験の結果,動物や人間に対する実験で特に毒性は確認されず,減圧時間も短縮できることがわかりました.一方だで混合ガスを吸ったダイバーたちの「声が高くなる」ことも判明しました.いわゆるドナルドダック効果です*2.この他に,ヘリウムガスは熱伝導性がよいため体温が奪われることもわかりました.
以上の結果から,ヘリウム-酸素混合ガスは潜水用途では(声は高くなりますが)非常に優秀であることがわかりました.肺の中がヘリウム-酸素ガスになっていると地上に出てきたときに問題となりますので,肺を徐々に窒素-酸素に戻すために減圧方法の改良も進められました.
そして1939年,水深74 mに沈んでいた潜水艦Squalusの引き上げ作業に実際にヘリウム-酸素ガスが使用されました.その後1956年には水深180 mの潜水も実現しています.
一方で,ヘリウム-酸素ガスは大変高価でした.そこで使用量を少なくするためヘルメットなどに改良が施されました.その後,ヘリウム以外にもアルゴンなども使った混合ガスが開発され,実用化されていきます.現在でも,窒素酔いを克服するには窒素ガスをヘリウムガス等に変更するのが唯一の解決策となっています.
このようにして,とても深い深度で安全に長時間作業する飽和潜水の技術が確立しました.
さて,毎度のことですが,これですべて解決というわけではありませんでした.水深120 mを超える深さにおいてヘリウム-酸素ガスを使用した潜水作業では高圧神経症候群(High Pressure Nervous Syndrome, HPNS)と呼ばれる症状を引き起こすことがあります.詳細な原因は不明のようです.
4.深海でのドナルドダック効果
前回ヘリウム-酸素ガス中では音速が変化し,それにより共鳴で強くなった音(フォルマント)が高くなることを説明しました.空気中での周波数F空気と混合ガス中での周波数FHeは,空気,混合ガス中での音速v空気,vHeを用いて,以下のように表されます.
一方で,深海では通常の6-7倍以上の圧力がかかっています.この状態では圧力の影響も無視できなくなります.大気圧での空気の密度ρ空気,深海での混合ガスの密度ρHe,および閉じた声道での共鳴周波数F閉を用いると,
というように修正できます*3.これにより,少し鼻にかかったような声に変化します.
さて,このように深海ではヘリウム-酸素混合ガスで声に含まれる周波数が変化します.前回見たように,第1, 2フォルマントが高く変化してしまうので,母音が区別しづらくなってしまいます*4.
これはコミュニケーションを取る上では非常に重大な問題です.何を言っているかわからなくなってしまう状況は,少しのミスが命取りとなる潜水作業では命取りとなってしまうからです.
そこで変化した声の周波数成分をもとの高さに戻すためにHelium Speech Unscramblerという装置が開発されました.それぞれの周波数成分の変化具合は人によっても異なりますし,声道の状態によっても大きく左右されます.リアルタイムで的確に元の声にもどすために,これまでに様々なアルゴリズムが開発されてきました.
ちなみにヘリウムガスの熱伝導性が良すぎて体が冷えてしまう点については,スーツに温水を流したりヘリウム-酸素ガスを加熱するなどの対策がとられるようになりました.
5.まとめ
ドナルドダック効果発見の裏には,もっと深くへ潜ろうとする人々の歴史があったのですね.ヘンリーの法則も,こうした歴史を思い出しながら勉強すると面白いかもしれません.
ちなみに最後に紹介したHelium Speech Unscramblerですが,約100万円するようです.高いですね!
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問題
Q. 窒素酔いを避けるためにヘリウムと同じく不活性な貴ガスであるキセノンやクリプトンが使われないのはなぜでしょう?
A. 非常に高価でコストがかさむから.また,空気よりも重いため肺からの完全な除去が難しいから.
キセノンガスやクリプトンガスをあえて使うメリットはあまりなさそうです.ちなみにヘリウムガスですら高いということで,(非常に危険ですが)水素ガスの使用も検討されたそうです.
参考文献
”U.S. Navy Diving Manual, Revision 7" (2016).
"The Science of Sound, 3rd edition" R. M. Wheeler (2014).
"Helium speech normalisation using analysis-synthesis method with separate processing of spectral envelope and fundamental frequency" A. Podhorski (1998).