化学と歴史のネタ帳

身近にひそむ化学と歴史を,高校までの知識をベースに解説する化学史系ブログです.

炎(11):ガス灯の普及

現在お馴染みの「都市ガス」という,ガスが都市内のいろんな場所に供給されるシステムが作られたのは,石炭ガスの普及がきっかけです.
【参考】炎(10):石炭ガス

ガス灯の利用が個人レベルからどのようにして都市レベルまで引き上げられたのでしょうか?


まずは18世紀末フランスから見ていきましょう.



炎(1):アルカリ金属
炎(2):アルカリ土類金属,銅
炎(3):炎の温度の計算?
炎(4):ガスバーナーの炎の色
炎(5):ロウソクの炎の色
炎(6):Mgの白色光?
炎(7):ロウソクのはじまり
炎(8):近代的なロウソク
炎(9):天然ガスの発見
炎(10):石炭ガス
炎(11):ガス灯の普及
炎(12):石炭から天然ガスへ
炎(13):ブンゼンバーナー
炎(14):アセチレンの登場
炎(15):アセチレン炎の利用

1.ホテル・セニュレでの実演

Philippe Lebon (1767-1804)

フランスのルボン(Philippe Lebon, 1767-1804) はシャンパーニュの炭焼き職人のもとで育ちました.そういった事情もあって,彼はもともと燃焼について大変興味があったようです.


パリの国立土木学校を1792年に卒業したのち,橋梁道路局の技師となります.同じくこの年,蒸気機関に関連する発明で国から2000フランの報奨金を授けられました.ルボンはこの頃,空気化学乾留に興味をもったものと思われます.1796年には乾留に関する特許を取得し,おが屑の乾留で得られた木ガスを照明や暖房に使えるのではないかと考えるようになりました.

Lebonのサーモランプ

ルボンはガスによるサーモランプ (加熱灯) に関する特許の取得 (1799年),そしてその修正 (1801年) と精力的に開発を進めました.彼は特許の中で,ガスによって「召使いがいなくても,昼夜を問わず,明かりと暖房が自由に使える.(中略)卓上で肉を焼き,温め直すのも思いのまま.洗濯物を乾かし,風呂の湯を温める.」とアピールしました.


すでにBarthélemy Faujas de Saint-Fond (1741-1819) *1石灰水によって二酸化炭素を除去できることを示していましたが,彼はそれと同じ方法で硫黄分も除去できることを発見しました.
 \mathrm{2SO_2 + 2H_2O + O_2 \longrightarrow 2H_2SO_4}
 \mathrm{Ca(OH)_2 + H_2SO_4 \longrightarrow CaSO_4 + 2H_2O}


ルボンはこのような技術の確立をもって機は熟したと考え,街灯をガス灯に変更するようフランス政府に嘆願します.しかしながらこの頃フランスは,革命後に続いた対外戦争で戦費が非常に嵩んでおり,街灯をガス灯に変えるなんていうお金のかかることには消極的でした.


それでもルボンは諦めませんでした.ルボンは1801年10月,ガス照明・暖房の魅力を世間に強力に訴えかけるため,ホテル・セニュレでの公開実験に踏み切ります.

ホテル・セニュレ Par Reinhardhauke — Travail personnel, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17472151

週1回,ガスは屋内の照明や暖房に使われ,屋外に設置されたガス灯は幻想的に庭園を照らし,噴水からは水の代わりに炎が噴き出すショーが実施されました.この様子は新聞で広く報道されました.


ちょうどこの時期は,オーストリアとの間でリュネヴィルの和約 (1801年) が結ばれて大陸側では戦争が落ち着いていました.そのため各国から多くの人々がLebonの公開実験に訪れ,その光景に衝撃を受けました.


例えばグレゴリー・ワット(Gregory Watt, 1777-1804)はたまたまホテル・セニュレでの公開実験に居合わせ,ガス灯の有用性を痛感しました.


彼の父ジェームズ・ワット(James Watt, 1736-1819)が創業したBoulton & Watt商会では,一応ガス灯の研究が行われていたものの,そんなに重要視はされていませんでした.そこで彼は,ガス灯開発にはすぐにでも本腰を入れて実用化につなげるべきだと手紙を送ったそうです.


一方,ドイツの起業家ウィンザー(Frederic Albert Winsor, 1763-1860) *2 は公開実験の噂をききつけてパリにやってきました.情熱をかき立てられたウィンザーはドイツに戻ってから自分でルボンのガス灯をつくったほどで*3,のちに紹介するようにイギリスに渡ってからはガス灯の普及に大きく貢献しました.


こうして公開実験によって多くの人の心に火をつけたルボンのガス灯ですが,問題がなかったわけではありませんでした.


ドイツの新聞が指摘しているように,木ガスを使っていたためひどい臭いがしました.また,木ガスは燃焼効率が悪く,そこまで多く発生させることはできません*4


さらに,当時はまだイギリスとの戦争が続いていたため政府には金銭的な余裕もありませんでした.

イギリスとのアレクサンドリアの戦い (1801年)

結果としてルボンはフランス政府を説得することはできないまま,1804年の11月末,彼は37歳という若さで亡くなってしまいました.


突然の死によって潰えたルボンの夢は,ワットやウィンザーに受け継がれることとなります.次の舞台はイギリスです.

2.Boulton & Watt商会による商業化

ルボンの公開実験を目撃したグレゴリー・ワットがイギリス本国に手紙を送ったとき,Boulton & Watt商会の従業員だったマードック(William Murdock, 1754-1839) *5はガス灯開発プロジェクトを中断させられていました.

William Murdock (1754-1839)

マードックスコットランドの製粉業者のもとに生まれ,機械工として教育されました.23歳の時に家族のコネでBoulton & Watt商会に雇われたのちメキメキと頭角を表し,1779年には鋳造製作の主任に抜擢されました.


イギリスのBoulton & Watt商会は,石炭ガス灯を開発する上では非常に良い条件が整っていました.


そもそもイギリスは木資源よりも石炭の方が豊富で,産業革命とともに鉄工業が発展していたためスケールアップに必要な鉄製の器具をつくることも可能でした.

James Watt (1736-1819)

また,創業者のジェームズ・ワット(James Watt, 1736-1819)は1794年頃,肺結核に苦しむ娘のJessieを助けるため藁にもすがる思いで"ガス療法 (pneumatic medicine)" *6に傾倒しました.結局娘さんは亡くなってしまいましたが,Wattはその後もガス療法のためのガスタンクを自身で設計したりしていました.

ガス療法のための装置

そうした経緯から商会ではガスタンクを作っていました.


1790年頃,マードックは黄鉄鉱を加熱して有用な物質を作り出す研究を行っていましたが,ある時,使っていた加熱装置で石炭を加熱したときに発生した石炭ガスに興味を持つようになりました.
【参考】炎(10):石炭ガス


1794-1798年にはガス灯の基礎となる実験を行いマードック自身は特許取得に前向きだったようです.しかしながら,石炭ガスの照明自体は小規模レベルでは新しいものではなかったので,商会側はガス灯開発に消極的でした.結果として,1799年,マードック蒸気機関の開発に専念することになりました.

Murdockの蒸気機関 By Birmingham Museums Trust - Birmingham Museums Trust, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=39237268

1801年11月,フランスに渡っていたグレゴリー・ワットから商会を運営していた兄の元に手紙が届きました.商会側はガス灯の重要性を認識し,マードックに実験を再開させました.こうして商会はガス灯の開発を推し進めることになりました.


1802年3月25日,フランスとの間でアミヤンの和約が結ばれ,束の間の平和が訪れました.和約の日程を事前に知った商会はこれを祝うため工場をガス灯でライトアップすることに決め,そのために今まで使ってきたレトルトやその他装置の大型化を図りました.

Sohoの工場 By Original uploader was Oosoom at en.wikipedia - Transferred from en.wikipedia, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4204689

こうしてガス灯の利用は,個人スケールから,より大きなスケールへと一歩を踏み出しました.


3月31日の工場のライトアップイベントでは,オイルランプ,ガス灯に加え,花火気球も用いられました.近所の家もイルミネーションで装飾されたようです.


その様子を見た人は「モンゴルフィエの非常に美しい気球が三機,大砲の合図に合わせ,工場の中庭から正確な感覚を保ちながら (打ち上げ花火とともに) 舞い上がっていった.」と記しています.
【参考】ヘリウム(1):風船に使うのはなぜ?


こうしたイベントの準備で,スケールアップに付随するいろんな問題があきらかになりました.その一つは石炭ガスをどうやって長時間供給するかというものでした.


レトルトを巨大化して石炭ガスをたくさん発生させ続けるのもいいのですが,そうするとだんだん内側に固形物がこびりついてきて,それをとるのが大変です.


そこで,創業者がハマっていた"ガス療法"の副産物だったガスタンクを利用して,そこに発生させた石炭ガスを溜めておくことにしました*7


商会のガス灯を初めて発注したのは,綿工場Salford Twist Millの経営者George August Lee (1761-1826) でした.


Leeはもともと最先端の技術を取り入れることに熱心で,1805年,Boulton & Watt商会にガス灯を発注しました.試験は1806年に行われ,50個のガス灯が無事に点灯しました*8


ガスは石灰水で精製されていたわけではなかったため装置自体の性能はあまり良くなかったようですが,Leeは大変大喜びし,1807年にはLeeの所有する工場の全部,私道の一部,さらには自身の住宅までガスを供給するよう拡大し,271個のガス灯と633個のバーナーが設置されるに至りました.


Leeはこうした照明設備を積極的に知り合いに公開したため,Boulton & Watt商会にガス灯の注文が殺到するようになりました*9

3.ガス灯プロジェクト

ここからBoulton & Watt商会をはじめとした会社はガス装置をどんどん販売していくわけですが,そのアプローチは工場ごと,家ごとにガス装置を設置するというものでした.


一方でウィンザー(Frederic Albert Winsor, 1763-1860)は,このアプローチが非効率的であると感じていました.

Frederic Albert Winsor (1763-1860)

彼は,中央のガス工場から放射状に広がったパイプによってガスの供給を受けるべきだと考えたのです.そうした彼のアイデアの背景には,17世紀頃からイギリスに普及していた水道事業がありました.


先ほどもみたように,ウィンザーはルボンの実演に感銘をうけた人々のひとりでした.ルボンに製法を教わろうとするも断られ,諦めきれずドイツに帰ってガス灯を試作し,理由はよくわかりませんが1803年ころイギリスに渡りました.


彼は発明家というよりは有能な営業マンで,宣伝に長けた人物でした.


パンフレットではラヴォアジエやアリストテレスの名前を出して自分の製品がちゃんとした理論に裏付けられているかをアピールしました.また,1804年にはLyceum劇場を,1807年には王太子邸宅Carlton Houseの庭園*10やロンドン中央のPall mallと呼ばれる通りをライトアップして民衆を驚かせました.

Pall mallでのガス灯のデモンストレーション

さらには技術アピールのための公演活動や議会へのロビー活動も展開するなど多様な宣伝戦術を駆使し,19世紀初頭の株式会社ブームに乗っかってウィンザーの設立したNational Heat and Light Company社への出資者をものすごい勢いで増やしていきました.


当然,彼の成功を妬む人もいました.ライバルたちは,ウィンザーの発明に新規性はないだとか,彼は大ホラ吹きだとか,あの未曾有のバブル崩壊を1720年に引き起こした南海会社*11と同じだなどと糾弾しました.Pall Mallのライトアップ時には,誰かが火薬を投げ入れて爆発させるなどの事件も起きました.

南海泡沫事件の風刺画

長らく沈黙していたBoulton & Watt商会も,ウィンザーが自身の発明がオリジナルであると主張していたことを知ると対抗措置をとります.王立学会にはたらきかけ,1808年,Rumfordメダルマードックに受賞させたのです.これは発明の優先権を主張するうえでかなり賢いやり方でした.


National Heat and Light Company社は国会での論争にもつれこんだり色々と苦しい立場に立たされました.なんやかんやあって結局1812年にはなんとか議会から認可を得ることに成功し,Gas Light and Coke Company社としてガス灯プロジェクトのスタートを切ることになりました.

Gas Light and Coke Company社

1814年頃にはウェストミンスターの一角の街灯がガス灯に切り替えられました.興味津々な群衆はガス灯の点灯夫についてまわったといわれています.1815年5月にはロンドンのガス管は24kmほどでしたが,12月には42kmになりました.


北部の綿工場と違ってロンドンではいろんな人がガスを使うことになったので,その対応も必要でした.特にガスを時間外に使いまくる人は困りもので,1814年にはガス栓の設置や,ガス使用を監視する人の配備などが進みました.1820-30年代にはガスメーターも登場しました.


こうしてイギリスではガス灯プロジェクトが無事成功し,やがてイギリスの会社がヨーロッパやアメリカ大陸のガス灯事業を推し進めるようになりました*12

4.ガス工場の環境汚染


Boulton and Watt商会では精製されていない石炭ガスを使っていたため,悪臭のする硫化水素H2Sが混じっていました.一方で,この頃はちゃんとガスを石灰水を用いて洗浄していました.
 \mathrm{Ca(OH)_2 + H_2S \longrightarrow CaS + 2H_2O}


しかしながら洗浄を繰り返すと,石灰水そのものが汚染され,最後には青色に変化しました.これはのちにBlue billyと呼ばれました.


青色に変化するのは,おそらく不純物として含まれていた酸化鉄*13が石炭ガス中のシアン化水素HCNなどと反応しプルシアンブルーを生成するためと考えられます.
 \mathrm{Fe_2O_3 + 2H_2S +H_2 \longrightarrow 2FeS + 3H_2O}
 \mathrm{FeS + 2HCN \longrightarrow Fe(CN)_2 + H_2S }
 \mathrm{Fe(CN)_2 +4NH_4CN \longrightarrow (NH_4)_4Fe(CN)_6 }
 \mathrm{(NH_4)_4Fe(CN)_6 \rightleftharpoons 4NH_4^{+} + Fe(CN)_6^{4-}}
 \mathrm{4Fe^{3+}+3Fe(CN)_6^{4-} \rightleftharpoons Fe_4[Fe(CN)_6]_3}


1848年のJohnston教授による記録では廃棄した消石灰にプルシアンブルーがエディンバラで2.7%,ロンドンで1.8%含まれていました.


問題なのはプルシアンブルーそのものではなく,他に硫化水素H2Sや微量ながらシアン化水素HCNを含んでいた点です*14.特に二酸化炭素の溶解などにより酸性に偏ると,腐乱臭や苦いアーモンド臭のする有毒ガスを放出しました.


荷車で運ぶと不快な臭いを撒き散らし,捨てると土壌や河川が汚染されたそうです.実際,作物が枯れたり川の魚が死んでしまうこともありました


廃棄石灰による環境汚染は枚挙にいとまがなく,怒った民衆は裁判所,陪審員,裁判官などの助けを借りて損害賠償を求めたりしました.


1817年にはエクセターのReuben Phillipsが湿らせた水酸化カルシウムそのものを用いる方法を開発しますが,効率は落ちてしまいました.大きく状況を変化させたのが1849年にRichard LamingとFrank Hillsが開発した酸化鉄Fe2O3を用いる方法です*15


さて,酸化鉄Fe2O3によるガスの洗浄方法を詳しく見てみましょう.


ここで,石炭ガスにはCOH2も含まれている点に注意しましょう.COとH2の間には以下の平衡があり,場合によってはCの関与も考慮に入れる必要があります.
 \mathrm{CO + H_2 \rightleftharpoons CO_2 + H_2 }
 \mathrm{CO + H_2 \rightleftharpoons C + H_2O }


酸化鉄Fe2O3による H2Sの吸収を詳しくみてみましょう.
 \mathrm{Fe_2O_3 + 2H_2S +H_2 \longrightarrow 2FeS + 3H_2O}

上記反応では,石炭ガスに含まれるH2Fe2O3Fe3O4に還元する反応を含んでいます.
 \mathrm{3Fe_2O_3 + H_2 \longrightarrow 2Fe_3O_4 + H_2O}
 \mathrm{Fe_3O_4 + 3H_2S +H_2 \longrightarrow 3FeS + 4H_2O}


また,石炭ガスに含まれているCOが関与する反応も考えることができます.
 \mathrm{Fe_2O_3 + 2H_2S +CO \longrightarrow 2FeS + 2H_2O + CO_2}


FeSは還元されてFeに変化し,Cと反応することもできます.
 \mathrm{FeS + CO \longrightarrow Fe + COS }
 \mathrm{3Fe + C \longrightarrow Fe_3C }


また,COはH2Sと直接反応することもできますので,COSやCS2などを副生成物として生じます.
 \mathrm{CO + H_2S \longrightarrow COS + H_2 }
 \mathrm{COS + H_2S \longrightarrow CS_2 + H_2O }


また,石炭ガスにシアン化水素HCNアンモニアNH3を含む場合,以下の反応でプルシアンブルーが生成される場合があります.
 \mathrm{FeS + 2HCN \longrightarrow Fe(CN)_2 + H_2S }
 \mathrm{Fe(CN)_2 +4NH_4CN \longrightarrow (NH_4)_4Fe(CN)_6 }
 \mathrm{(NH_4)_4Fe(CN)_6 \rightleftharpoons 4NH_4^{+} + Fe(CN)_6^{4-}}
 \mathrm{4Fe^{3+}+3Fe(CN)_6^{4-} \rightleftharpoons Fe_4[Fe(CN)_6]_3}

これにより,辺り一帯の土壌が青く変色してしまいました.プルシアンブルーそのものに毒性はありませんが,不純物として毒性物質が含まれている可能性があるため,土壌汚染のサインとして度々トラブルになりました.

5.その後

需要の拡大とともに石炭ガスの製造方法はどんどん改良が重ねられ,19世紀後半には水蒸気を用いた手法も開発されました.こうして得られた石炭ガスは特に,水性ガスとも呼ばれます.
 \mathrm{C + H_2O \longrightarrow CO + H_2}


20世紀前半には,酸素ガスと水蒸気を用いるWinkler法*16 (1920年代) やLurgi法 (1930年代), Koppers Totzek法 (1930年代) といった手法がドイツで開発されました.


また,1923年にはドイツでFranz FischerとHans Tropschが水性ガスから液体の炭化水素燃料を合成する方法(Fischer-Tropsch法)を開発しました*17.彼らはこれをSyntholと呼びました.
 \mathrm{\textit{n}CO + (2\textit{n}+1)H_2 \longrightarrow C_\textit{n}H_{2\textit{n}+2} +\textit{n}H_2O }

第二次世界大戦,海外から燃料が手に入りにくくなったドイツでは,石炭を直接水素と反応させる直接水添液化法*18と並びFischer-Tropsch法で合成した石炭液化燃料が戦闘機や戦車などに使われました.


1940年代になると,アメリカでTexaco法,Hygas法といった手法が開発されました.Hygas法では水素ガスを反応させます.
 \mathrm{C + 2H_2 \longrightarrow CH_4}
 \mathrm{C + H_2O \longrightarrow CO + H_2}
 \mathrm{CO + 3H_2 \longrightarrow CH_4 + H_2O}


このように石炭ガスは広く使われていきましたが,やがて石炭燃焼に伴う大気汚染の影響で,第二次世界大戦後に石油や天然ガスに切り替えられていきました.


次回はそのあたりを見てみましょう.


参考文献

"ULLMANN'S Encyclopedia of Industrial Chemistry" Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA (2002).
"History of Industrial Gases" E. Almqvist, Springer (2003).
"Gaslight, Distillation, and the Insutrial Revolution" L. Tomory, Hist. Sci., 395-424 (2011)
"Acetylene and Its Polymers: 150+ Years of History" S.C. Rasmussen, Springer (2018).
"Progressive Enlightenment: The Origins of the Gaslight Industry 1780–1820" L. Tomory (2009).
"Development of the HYGAS Process for Converting Coal to Synthetic Pip3line Gas" B.S. Lee, Journal of Petroleum Technology 1407-1410 (1972)
"Handbook for Gas Engineers and Managers" Walter King (1898).
"The analysis, technical valuation, purification, and use of coal gas" W.R. Bowditch (1867).
"The mechanism of coal gas desulfurization by iron oxide sorbents" Y-H. Lin, et al, Chemosphere 121, 62-67 (2015).
"Chemistry, Toxicology, and Human Health Risk of Cyanide Compounds in Soils at Former Manufactured Gas Plant Sites" N.S. Shifrin, et al. Regulatory Toxicology and Pharmacology 23, 106-116 (1996).
"The Use of Lime in Agriculture No. II" Prof. Johnston, 295-310 (1848).
"Reports on the Drainage and Sewerage of Bristol" J. Green (1848).
『工業化学入門』 齋藤勝裕,オーム社 (2011).
化石燃料のエネルギー転換』内山洋司,日本エレクトロヒートセンター.
『技術の歴史 第7巻 産業革命(上)』 田辺振太郎, チャールズ・ジョセフ・シンガー,筑摩書房 (1979).
『排煙脱硫技術』川村和茂,東海林要吉,Journal of the Society of Inorganic Materials, 9, 412-417 (2002).
『石炭ガス化技術と水素製造』金子祥三,水素エネルギーシステム,37,29-32 (2012)
『環境科学の基礎』御代川貴久夫,培風館 (2003).
『石炭技術総覧』エネルギ総合工学研究所石炭研究会,電力新報社 (1993).
『エネルギー400年史』リチャード・ローズ,草思社 (2019).

目次 - 化学と歴史のネタ帳

*1:Saint-Fondは気球への石炭ガスの応用を研究していました.

*2:もともとはFriedrich Albrecht Winzerという名前ですが,イギリスに渡った後,改名しました.

*3:Lebonから何度も詳細を聞き出そうとしましたが,失敗に終わりました.

*4:William Henryが1805年に示しているように,当時の技術では木ガスには25-30%二酸化炭素がCO2が含まれています.これに対し石炭ガスは4-8%しか含まれていなかったので,石炭ガスの方がよく燃焼しました.さらに,石炭ガスの方が6-7倍ガスが発生します.このように石炭ガスの方が優秀なのですが,木ガスが照明用にまず選ばれた理由として,フランスやドイツでは石炭がそこまで多く産出したわけではなかったという点が挙げられそうです.この点は,石炭が多く産出するイギリスと大きく違いますね.

*5:もともとはMurdochというスペルでしたが,のちにイギリス風にMurdockと表記を変えました.

*6:二酸化炭素などを患者に吸わせるといったものでした.

*7:1803年には,8.5 Lくらいのサイズのものを作りました.

*8:実際にガス灯を設置するという過程において石炭の違いによる適切な加熱条件の違いが問題として浮上し,設置後にもその改良研究が進められました.

*9:商会自身は注文の殺到を手放しに喜んでいたようではありませんでした.というのも,商会の中心事業は利益の出やすいロングセラーであった蒸気機関で,こちらの業務に支障をきたす恐れがあったためです.そこで,商会は自分達の技術をいろんな人に教え,他の工場にもガス灯製造技術を普及させて自分達の負担を減らそうとしたようです.

*10:George 3世 (1760-1820) の誕生日 (6月4日) のことでした.

*11:南海泡沫事件(South Sea Bubble)と呼ばれ,バブル経済(Economic bubble)の語源となりました.

*12:一般には,ロウソクも引き続き照明用として使われました.

*13:生石灰を作る際に使う石灰岩に含まれています.

*14:HCNが含まれているかどうかについては当時かなり論争になったようです.

*15:1818年にもPalmerが似た方法を開発していました.

*16:1978年にはHigh-temperature Winkler法に改良されました.

*17:1902年,SabatierとSenderensが水性ガスからメタンを合成した研究に遡ることができます. \mathrm{CO_2 + 4H_2 \longrightarrow CH_4 + 2H_2O}

*18:1913年にBergiusが発明しました.