1929年頃,スウェーデンの植物学者Henrik Gunner Lundegårdh (1888-1969) がブンゼンの元素分析法をもとに,炎光光度法と呼ばれる元素の定量分析法を開発しました.その際に燃料として使われたのがアセチレンです.
【参考】炎(13):ブンゼンバーナー
C2H2で表されるアセチレンは,三重結合を持つ特徴的な物質です.
なぜアセチレンという名前なのでしょうか?どんな経緯で発見されたのでしょうか?
今回は,アセチレン発見の歴史と,その命名の由来を見ていきましょう.
炎(1):アルカリ金属
炎(2):アルカリ土類金属,銅
炎(3):炎の温度の計算?
炎(4):ガスバーナーの炎の色
炎(5):ロウソクの炎の色
炎(6):Mgの白色光?
炎(7):ロウソクのはじまり
炎(8):近代的なロウソク
炎(9):天然ガスの発見
炎(10):石炭ガス
炎(11):ガス灯の普及
炎(12):石炭から天然ガスへ
炎(13):ブンゼンバーナー
炎(14):アセチレンの発見
炎(15):アセチレン炎の利用
1.アセチレン炎

通常の理科実験などではアルコールランプやブンゼンバーナーなどで十分ですが,より高い温度が必要な場合,選択肢として挙がるのがアセチレン炎です.
アセチレンC2H2は無色のガスで,以下のように燃焼します.
酸素ガスと混合して燃焼させる場合は3100℃近くまで上昇します.一方で空気と混合する場合,熱の一部が空気の約80%を占める窒素ガスを温めるのに使われますので,約2300℃程度になります.
アセチレンはさまざまな方法で用意することができます.
教科書的によく知られているのはカルシウムカーバイドCaC2から製造する方法です.
CaC2からアセチレンを製造する場合,原料由来の不純物をいろいろと取り除く必要があります.例えばリンが含まれているといかのような反応でPH3が気体として混ざってきます*1.
こうしたPH3は酸化することで取り除けます.
塩化鉄と酸化鉄の混合物*2を触媒のもと反応させて酸素を発生させる場合,
全体の式は以下のようになります.
この方法は水銀化合物を触媒とするので問題がありました.現在では硫酸などを使って酸化するのが有効です.
他にもメタンCH4などを熱分解することでも得られます.
高温で進むこの反応は,メタンCH4などの炭化水素が高温では不安定になる一方,アセチレンC2H2は安定になることを利用しています.
もちろん,安定になるとはいっても炭素Cや水素ガスH2の方がもっと安定ですので,アセチレンがさらに分解する反応も考慮する必要があります.
そのため,高温にする時間は0.1-10 ミリ秒という短時間にとどめます.
熱分解を利用した製法として,第二次世界大戦中にドイツではじまったアーク放電で炭化水素を分解する方法*3や,1950年代に開発された天然ガスなどの部分燃焼*4を利用する製法があります.
製造したアセチレンを保管する場合は少々注意が必要です.というのも,たいていガスを保存する場合は体積を減らすため圧力をかけて液化させますが,液体となったアセチレンは非常に爆発しやすいためです.こうした性質は1883年にはベルテロ(Marcellin Pierre Eugene Berthelot, 1827-1907)によって明らかにされました.

フランスの化学者Georges Claude (1870-1960) は二酸化炭素が溶けた水である炭酸水について調べている時,アセチレンもなんかしらの液体に溶けるのではないかと考えました.
そしていろいろ調べていくうちに,アセトンによく溶けることがわかりました.さらに嬉しいことに,アセトンに溶けた状態であれば爆発しにくいこともベルテロによって判明しました.
1896年にはアセチレンをアセトンに溶かした状態で保存する技術を実用化しました.現在でも,アセチレンはアセトンなど*5に溶かした状態でガスタンクに保存します.
2.アセチレンの発見
イギリスの化学者Edmund Davy (1785-1857) は1836年,Bristolで行われた英国科学振興協会の会議で炭素と水素からなる不思議なガスについて講演を行いました.その詳細は英語やドイツ語,フランス語で出版された報告書に記載されました.
彼はまず,酒石酸水素カリウムKHC4H4O6と木炭の粉末を鉄製のボトル内で加熱しました.
こうして得られた黒い物質K2C2を水に入れると,不思議なガスが発生しました.現在でいう,アセチレンです.
このガスはすでに知られていたエチレンよりもよく燃え,
塩素ガスと反応させると赤い炎を出して爆発的に燃えました.
ちなみに彼はこのガスの化学式を"2C+H"であると考え,"bicarburet of hydrogen"と呼びました.これは当時考えられていた原子量が,現在と異なっていたためです.当時は水の化学式もHOだと思われていました.
Davyはこのガスを照明に使うことも提案していましたが,こうした彼の一連の発見はしばらく忘れ去られてしまいました.
このガスに再び光があたったのは20年以上たった1860年のことです.

マルセラン・ベルテロ(Pierre Eugène Marcelin Berthelot, 1827-1907)が1859年にEcole Supérieure de Pharmacieで有機化学の教授となってすぐ,彼は新しいガス,acétylèneを合成したと報告しました.
彼はまず,エチレンやエタノール,ジエチルエーテルといったガスを赤熱したチューブに通しました.
次にこれを塩化銅(I)をアンモニア水に溶かした溶液に通したところ,赤色の沈澱が得られました.
さらにこれを塩酸HClと反応させたところ,アセチレンが得られたと言うわけです.
彼はこのガスが空気中でよく燃焼し,また塩素ガスと反応させると爆発的に燃焼することも確認しました.
Davyと同じですね.しかしベルテロは1860年に報告した段階では,Davyの研究には気づいていなかったようです.
彼はさらに,1862年には水素ガス存在下で炭素棒間で放電させると,アセチレンを発生させられることを発見しました.
この実験装置は卵みたいな形をしていたので,"Marcelinのd'œuf électrique (電気卵)" とも呼ばれました.

こうした実験装置の開発によりアセチレンの合成スピードは増加し,1分間に10-12 mL製造することができるようになりました.
3.アセチレンという名前
ベルテロがこの物質をacétylèneと呼んだのは,1839年にリービッヒ(Justus Freiherr von Liebig, 1803-1873)がC2H3*6を"アセチルAcetyl"と呼んでいたことにならっています.

リービッヒはドイツ*7の染料商のもとに生まれ,幼い頃から父の染料製造の手伝いをしたり石鹸工場にいって製法を学んだりと,実験に慣れ親しんでいました.
19歳の時,化学の最先端であるパリに渡ったリービッヒは,説明実験をとりいれた講義や,実験による仮説の検証という方法論に感銘を受けたようです.ドイツに戻りギーセン大学*8に着任すると,1826年に学生実験室を設置し*9,学生実験による教育法*10を確立しました*11.

当時は無機化学が中心で,物質の性質はどんな反応を引き起こすかで調べられていました.一方で,リービッヒらが開拓した有機化学は,物質の性質を含まれる元素の分析によって調べることが中心となりました.

彼が1830年に開発した"Kaliapparat"と呼ばれる有機化合物に含まれる炭素・水素の量を調べる分析法は,その後の有機化学のスタンダードとなりました*12.
彼の門下生にはフェーリング溶液のフェーリング(Hermann von Fehling, 1812-1885) や,三角フラスコで有名なエーレンマイヤー(Emil Erlenmeyer, 1825-1909), ベンゼンの構造を提唱したケクレ(Friedrich August Kekulé, 1829-1896) など有名な有機化学者がたくさんいます.

Henri Victor Regnault (1810-1878) も1835年頃,(非公式ではありますが)リービッヒのもとで学んだ一人です.彼は1794年にオランダの化学者*13が合成して以降,多くの化学者が組成を決定しようと挑戦してきたジクロロエタンC2H4Cl2,別名Dutch oilの組成決定に取り組みました*14.
彼はKaliapparatで直接組成を調べるのは困難だと判断し,1834年にデュマ(Jean Baptiste André Dumas, 1800-1884) らが発見していた,「特定の有機化合物では水素が塩素と置き換えられる」という置換と呼ばれる反応を使ってDutch oilを調べることにしました.
こうして塩素化した化合物をいくつか合成して組成を調べていたところ*15,Regnaultはこれらの化合物にC4H6 (今の表記ではC2H3) というかたまりが含まれることに気づきました.このかたまりは,アルデヒドaldehyde C4H6O+H2O (今の表記ではC2H4O) に含まれるものと同じだということで, "aldehydène"と名付けました.
一方でリービッヒとやりとりのあったベルセリウス(Jöns Jacob Berzelius, 1779-1848)は,aldehydène C4H6が酢酸"acetic acid"*16 C4H6O3+H2Oに含まれていることに着目し,C4H6を酢酸と関連づけて"Acetyl"と呼びました.
リービッヒもどちらかというとこの見方だったようで,"Acetyl"をAcと略記してその反応についてまとめた論文を1839年に発表しました.のちに "Acetyl"といえばCH3COのかたまりを指すようになりましたが,これは今でもリービッヒのようにAcと略記しますね.
こういった背景もあり,ベルテロは新たに合成した物質C2H2について,"acétyl" C2H3のかたまりを持つ化合物として,acétylèneという名前をつけたわけです.当時の考え方で,エチレン "ethylene" C2H4がエチル "ethyl" C2H5のかたまりに由来するのに合わせた形となります*17.
ここで注目したいのは,語尾が"-ene"で終わっている点です.現在では二重結合をもつものは"-ene",三重結合を持つものは"-yne"と厳格に決まっていますが,以前紹介したように,当時はこういったルールが存在しませんでした.
【参考】炎(9):天然ガスの発見
結合に注目して名付けられるようになったのは1892年に有機化合物の命名規則であるGeneva Nomenclatureが定められてからです.
それ以前に名前のついたアセチレン"acétylène"はいまでも慣用名として使われ続けています.ちなみに,現在の命名規則での正式名称は,エチン "ethyne" です.Cが二つなのでeth-, 三重結合なので-yneですね.
4.まとめ
こうして発見されたアセチレンは,その後いろんな用途につかわれるようになりました.次回はその辺りを見てみましょう.
参考文献
"ULLMANN'S Encyclopedia of Industrial Chemistry" Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA (2002).
"History of Industrial Gases" E. Almqvist, Springer (2003).
"Acetylene and Its Polymers: 150+ Years of History" S.C. Rasmussen, Springer (2018).
"Flame Spectroscopy" Mavrodineanu, R. and Boiteux, H. (1965).
"Before Radicals Were Free – the Radical Particulier of de Morveau" E.C. Constable, C.E. Housecroft. Chemistry 2, 293-304 (2020).
"The contributions of Henri Victor Regnault in the context of organic chemistry of the first half of the nineteenth century" S.R-Acherman, Quím. Nova, 35, 438-443 (2012).
"Leçons sur les méthodes générales de synthèse en chimie organique : professées en 1864 au Collège de France" M. Berthelot, Gauthier-Villars (1864).
"History of Universities: Volume XXXIV/1 A Global History of Research Education: Disciplines, Institutions, and Nations, 1840-1950"
"Complete Dictionary of Scientific Biography" K. Chang, A. Rocke, Oxford University Press (2021).
『化學史談 II ギーセンの化学教室』山岡望,内田老鶴圃 (1952).
*1:他にもH2Sが混ざっています.
*2:Catalysol
*3:1960年代からは石炭から製造する方法の開発も行われました.
*4:酸素と混合して燃焼させたあと,水や炭化水素系の液体で冷やす方法があります.
*5:他にもジメチルホルムアミドがありますが,毒性が高いです.ちなみに,カルシウムカーバイドから作った時に生じるCa(OH)2は,アセトンのアルドール縮合を触媒するので注意が必要です.
*6:当時の表記ではC4H6.
*8:この時期のドイツはナポレオン戦争に負けて国内の立て直しを図っていた時期で,大学にも改革の波が押し寄せ,新しい教育の需要が高まっていました.
*9:それ以前は学生用の実験室というものはなく,研究者の実験室で実験させてもらえる学生は極めてまれでした.
*10:まずは定性分析によっていろんな物質の性質に慣れ親しみ,次に物質の量を調べる定量分析に進みました.その後はいろんな化学薬品の製法を実習させ,化学文献の使い方を学ばせました.こうして化学的に考え,化学的に操作することを身につけ,自分一人で研究ができるようにすることを目標としました.
*11:似たような教育法を実践した化学者として,Göttingen大学で教鞭をとったFriedrich Stromeyer (1776-1835) も挙げられます.彼は無機化学を題材に1810年以降学生実験を取り入れた教育を行なっていました.Liebigとの大きな違いとして,Stromeyerはあくまで既知の物質を”未知の物質”として実験させて原理を習得させることに主眼が置かれていましたが,Liebigは最先端の有機化学における本当に"未知の物質"を扱わせることもあり,時に今で言う”ポスドク”と一緒にグループを組ませて実験させることもありました.現在の感覚でいうと,どちらかというと学生実験はStromeyerの方法に近く,卒業研究はLiebigの方法に近かったのかもしれません.
*12:窒素の定量は難しかったようですが,1833年にはJean Baptiste André Dumas (1800-1884) によって改良されました.窒素の定量はアヘンのモルヒネなどに代表されるアルカロイドの分析に非常に重要でした.
*13:Johann Rudolph Deiman (1743-1808), Adrien Paets van Troostwijk (1752-1837), Nicolas Bondt (1765-1796), Anthoni Lauwerenburgh (1758-1820) といったメンツです.
*14:実はこの過程で彼はポリ塩化ビニルの合成に成功しているのですが,歴史上はドイツの化学者Eugen Baumann (1846-1896)が1872年に合成したことになっています.
*17:1834年,Liebigがエーテル"ether" (C2H5)2Oに含まれるかたまりC2H5を"ethyl"と名付けました.語末の-ylは,ギリシャ語で物質を意味する"ύλη (ýli)" からつけられています.ここに単語の後ろにつけて娘であることを示す"-ήνη (-ḗnē)"から"ene"をくっつけて"ethylene"という名前をつけたようです.