「酸とは水溶液中でH+イオンを与えるもので,塩基は水溶液中でOH-イオンを与えるものである.」という定義は,アレニウスの定義として習うものです.
この定義は,本当にアレニウスが提唱したものでしょうか?実は彼は生涯にわたって明確に酸塩基の定義をしたことはありません.
今回はアレニウスの業績を確認しつつ,アレニウスの定義と呼ばれるようになった経緯を探っていきましょう.
酸と塩基(1):アレニウスの博士論文
酸と塩基(2):ミカエリスの酸塩基理論
酸と塩基(3):ブレンステッドとローリー
1.酸とアルカリと塩基
酸およびアルカリの存在は古くから知られていました.
酸(acid)はもともと酢のように酸っぱい(ラテン語でacidus)液体を指していました.モンに含まれるクエン酸や,お酢に含まれる酢酸といった有機化合物の酸などです.
【参考】酸の歴史(1):酸とはなにか?>
教科書にまず出てくる塩酸や硫酸,硝酸といった無機化合物の酸,いわゆる鉱酸 (mineral acid) が登場するのは,蒸留技術が向上した錬金術の時代です.私は舐めたことはありませんが,うすい塩酸や硫酸は,確かに酸っぱい味がするようです.
一方でアルカリ(alkali)はアラビア語で「焼いた灰」を意味するal-qālīを由来とするように植物を焼いて生じた炭酸ナトリウムや炭酸カリウムなどを含む灰を表していました.「焼いた灰」としてのアルカリは洗濯や医療,儀式などに用いられました.
【参考】アルカリの歴史(1):炭酸ナトリウム
アルカリと似た概念に,塩基(base)というものもありますよね.塩基は,酸と結合して生じる塩を生じる基体としてフランスの植物学者デュモンソー(Duhamel du Monceau, 1700–1782)などが18世紀初頭に使い始めています.
さらにフランスの化学者ルエル(Guillaume-François Rouelle, 1703-1770)は1754年にこの概念をさらに拡張し,金属や油など,酸と反応して塩を生じるものならなんでも塩基と呼びました.
このように,アルカリが特定の物質を指す用語として誕生したのに対して,塩基は酸との中和反応のうえで使用された概念でした.
酸はもともとやや感覚的な概念だったため,酸と塩基について理論的に再解釈すべく18世紀以降様々な定義が提唱されました.
現在の教科書では,主にアレニウス (Svante Arrhenius, 1859-1927),ブレンステッド (Johannes Nicolaus Brønsted, 1879-1947),ローリー (Thomas Martin Lowry, 1874-1936)による定義が扱われます.
彼らはどんな経緯で酸塩基の定義を提案したのでしょうか?
2.大学生スヴァンテ・アレニウス
現代の教科書に登場する酸塩基の定義のうち,最も初期の定義はアレニウスの定義です.アレニウスの酸塩基の定義は通常,以下のように表現されます.
酸とは水溶液中でH+イオンを与えるもので,塩基は水溶液中でOH-イオンを与えるものである.
引用としてはたいていは1887年の定義とされていますが,1884年とするものもあります.それぞれ何が起こった年なのか,彼の人生を追いながら見ていきましょう.
アレニウス はスウェーデンの農民階級出身で*1,1620年にÅrena村に移り住んだLasse Olofssonの子孫です.この村の名前から先祖はAreniusと名乗っていたようですが,叔父さんにあたる植物学者のJohan Arrheniusがラテン語っぽくArrheniusとつづりを変更しました.
1857年,土地測量技師として身をたて,ウプサラ大学の職員であったSvante Gustav Arrhenius (1813-1888) *2のもとに生まれたアレニウスは,幼い頃からウプサラの大聖堂附属学校で教育を受けました.学長は物理学のすぐれた教師だったそうです.数学や物理が得意だったアレニウスは,17歳でウプサラ大学に入学しました.
はじめは化学を学びたかったようですが,化学の教授だったPer Teodor Cleve (1840-1905) はアレニウスからすれば理論を軽視しているように感じられました.1869年にメンデレーエフ (Dmitrij Ivanovich Mendelejev, 1834-1907) が発表したはずの周期表も教えないことに不満をいだき,1881年には物理学に転向しました.
アレニウス自身はそこで自主的に研究したかったようですが,物理学の教授であったThalénはそれを許しませんでした.そこで9月には友人とともにストックホルムに移り,スウェーデン王立科学アカデミーの物理学教授Erik Edlundの研究室に転がり込みました.
Edlundはアレニウスらを歓迎し,火花放電の起電力に関する研究を手伝うところから始めさせました.翌年春からは分極の減衰に関する独立した研究を行うことができ,その成果を1883年にアカデミーのBihang誌に掲載することができました.
アレニウスは次に何をしようかと考えました.この時期,科学界では溶液の性質に関する研究が流行していました.
ファント・ホッフ (Jacobus Henricus van 't Hoff, 1852-1911)は希薄溶液と気体の類似性を調べ,またコールラウシュ (Friedrich Wilhelm Georg Kohlrausch, 1840-1910)は溶液の導電性を調べていました.
アレニウスがふと思い出したのは,ウプサラ大学で不満だったCleveの授業です.
Cleveは授業中,砂糖のように揮発しない物質の分子量を決定することは難しい,と強調していました.当時は揮発させて気体の状態で分子量を決定するのが一般的で,不揮発性の物質の分子量の測定は困難でした.
アレニウスはそうした物質の分子量を決定する方法を考えようと思い立ちました.水の一部をアルコールに置き換えると導電率が低下することを知っていましたので,導電性の低下率から分子量を推定できるのではないかと考えたようです.
彼は早速,分子量を決定する方法の開発にとりかかりました*3.
実験はあまりうまくいかなかったようです.当時,電気分解や電解液に関する理論はバラバラで,測定に関してもまだ十分とは言えない状態でしたので無理もありません.
実験を繰り返すうち,彼は導電性の塩の状態がとても重要なのではないかという考えに思い至りました.そこで彼は,コールラウシュが行っていた伝導性に関する研究をもとに,のちの電離説につながる研究をはじめました.
3.アレニウスの博士論文 (1884)
アレニウスは1883年の春に実験的研究を終え,夏に自宅で理論的な部分を執筆しました.実験の結果とそこから導き出された結論を記した博士論文『電解質のガルバニック伝導度に関する研究(Recherches sur la conductibilité galvanique des électrolytes)』(全152頁)は1883年6月にスウェーデン科学アカデミーに提出され,翌年に出版されました.
彼の博士論文は2部構成で,第1部は実験パートにあてられています.第1部ではEdlundの考案した機器を用いながらコールラウシュのように水溶液の導電性を調べていますが,彼が発見したのは水溶液が希釈された場合に現れる不思議な現象です.
彼は塩,酸,塩基のさまざまな希釈液で抵抗値を測定し,表に起こしました.その結果,電解質である塩の水溶液について希釈率を2倍にすると,抵抗が2倍になりました.これは納得できますね.
一方で溶液を希釈しても導電率が電解質の量に比例しないものもでてきました.例えばアンモニアの場合,水で希釈していくと予想より導電率が上昇しました.
彼はこうした現象を説明するため,化学教授のOtto Pettersonの勧めもあって理論的な考察パートを第2部として独立させ,ウィリアムソン=クラウジウス理論に基づいて論じました.
1850年代,ウィリアムソン (Alexander William Williamson, 1824-1904)やクラウジウス (Rudolf Julius Emmanuel Clausius, 1822-1888)は,分子の一部は衝突などによって解離し,各原子が正や負の電荷をもつ自由な原子の状態に変化すると考えました*4.
1000分の1秒でもいいので一時的にパートナーと離れる状態が生じ,これが再結合することで電気分解を説明できると考えました.
一方でアレニウスは,電気分解が起きていない状態でも,こうした交換が起きると考えました.そして,ここが重要なポイントですが,同じ分子でもそのような交換が起きる電解質の状態(活性)と,そうした現象が起きない非電解質の状態(不活性)があると考えたのです.
例えば強酸はほとんどすべてが活性な分子ですが,弱酸には不活性な分子も含まれると考えました.これにより,強酸はよく電気を通し,弱酸はそれに比べると電気を通しにくいことを説明しました.希釈すると弱酸は(なぜか)活性な分子が増えるので,希釈率によって電気伝導度が変化することが説明できました.
一方弱塩基であるアンモニアの場合,もとは不活性なNH3ですが,水で希釈していくと活性なNH4OH*5に変化すると考えました.これにより,弱塩基の場合も電気伝導度が希釈率に依存することを説明しました.
活性な分子と不活性な分子は具体的に何が違うのか?は明らかにしていませんが,ここに電離説の萌芽をみることができます.
それでは彼が中和反応をどう考えていたかがわかる箇所を拾ってみましょう.彼は異なる電解質の反応について,以下のようなモデルを考えました.
電解質ABは陽イオンAと陰イオンBから,電解質CDは陽イオンCと陰イオンDからつくられています.これらが溶液中でイオンを交換し,電解質ADとCBが形成されています.
彼はこのモデルを酸と塩基から水と塩が生成する中和反応に適用しています.(電解質の)酸をAB,(電解質の)塩基をCDとすれば,例えば水をAD,塩をCBとすることができます.
ここで彼はA, B, C, Dがなにかを論文中で明記していません.仕方がないので好意的に解釈することにしてみましょう.
注意深く博士論文を読むと,§5では「酸の化学式がHRで,Rが負のラジカルである場合[…] 」としている部分があります.ラジカルはイオンとほぼ同義で使われていますので,それを考慮すれば酸ABにおいて,A = H,B = Rが成り立ちます.
一方で,§21では「水はHとOHという2つのイオンの衝突によって生成されるため」という部分があります.A=Hで,水はADでしたから,D= OHとなることがわかります.
あらためて先程の式をそれぞれ代入して書いてみましょう.
塩基はCOHと表されていますね.結果として,中和反応で生成される水は,酸から生成されたHイオンと,塩基から生成されたOHイオンによって生じるというようにアレニウスは見ていたことがわかります*6.
すなわち,この頃のアレニウスの酸塩基の考え方は,以下のようにみることができます.
酸とはH+イオンを与えるもので,塩基はOH-イオンを与えるものである.
「与える」は,このときはざっくりと広い意味で「与える」という意味です.
酸からHイオンが生じ,塩基からOHイオンが生じるというのは,何も彼が最初に考えた話ではありません.例えば電気伝導度の実験からHClの場合にはHとClに分解するというのはほぼ共通認識でしたし,BungeやWiedemannのように代表的な塩基である水酸化カリウムKOHはKとOHにわかれると考える人もいました*7..
オリジナリティはともかくとして,アレニウスはこのように酸塩基を捉えることによって中和熱に関する面白い考察をしています.中和熱はHとOHが衝突して活性(電解質)の水が生じ,それが不活性(非電解質)になる際に放出された熱だと考えました.強酸と強塩基による中和熱はこれで説明されます.
一方で弱酸や弱塩基は,先ほどの考え方に従えば,まず中和反応を起こすために非電解質から電解質へと変化する必要があります.その際に熱を吸収すると考えたのです.
そうすると中和反応全体で放出される熱の量はその分減ってしまいますので,弱酸や弱塩基を用いた場合は中和熱が小さくなる,というわけです.よく考えられていますね.
さて,このようにかなり先進的な発想も汲み取ることのできる博士論文ですが,論理に忠実に書かれているわけではないので大雑把に読んだだけでは意味が取りづらいです.実際,学位論文の評価は落第スレスレの4等(non sine laude approbatur)で,ウプサラ大学の職位は得られませんでした*8.
一方でアレニウスは学外のオストワルト (Friedrich Wilhelm Ostwald, 1853-1932) ,クラウジウス,ファント・ホッフなど著名な研究者にも博士論文を送っています.
この分野に精通した彼らからはかなり評価が良かったようです.中でもオストワルトは実際にスウェーデンに彼をスカウトしに行っています*9.
このように,彼の博士論文は前提知識を共有していたその道の専門家には正当に評価されました.オリバー・ロッジ (Oliver Lodge, 1851-1940) はこの論文に感銘を受け,1886年の英国協会への報告にこんな文章を載せています.
この論文は,化学の数学的理論への明確な一歩である.この論文のタイトルは『電解質の化学的理論(The Chemical Theory of Electrolytes)』だが,それ以上のものである.これは『化学の電解的理論(an electrolytic theory of chemistry)』だ.
4.浸透圧との関係 (1887)
アレニウスの博士論文は先進的なアイデアを含んでいたものの,まだその理論は完全なものではありませんでした.例えば,活性分子(電解質)と不活性分子(非電解質)の違いがちゃんと定義されていませんでした.
彼の理論が進展したきっかけは,ファント・ホッフの浸透圧に関する研究でした*10.
ファント・ホッフは1885年の回顧録の中で,溶液についても気体の方程式と似たものを定義できると示しました.彼が提出した方程式は,以下のようなものです.ここで,Pは浸透圧を表しています.
定数R'は気体定数Rと等しい場合もありましたが,そうじゃない場合もありました.そこで彼は変数i を用いて以下のように書き直しました.
i = 1のこともありましたが,ラウールの実験を元に計算するとHClでは1.98,硝酸ナトリウムでは1.82になることもありました.彼はなんでiが変な値を取るのかは説明できませんでしたが,とりあえず論文として1886年に報告しました.
アレニウスがそのコピーを受け取ったのは1887年のことでした.その月の30日,彼はファント・ホッフに手紙を書きました.
「あなたの論文のおかげで,溶液の構造が驚くほどはっきりしました.[...] (NaClでは)iは1より大きいので,自然な説明としては,I2が高温では解離するように,NaClは部分的に解離しているということになります.[...] 2つのイオンを持つNaCl, KCl, KNO3, NaOHなどでは係数はほぼ2に達し,3つのイオンを持つBa(OH)2, CaCl2, K2SO4ではほぼ3に近づくのです.[...] 私が論文'Sur la conductibilité'で活性分子と呼んだものは,このように解離した分子と同じです.その時私が提唱した命題の一つは,今ならこうなるでしょう:すべての電解質は,最も希釈された状態で完全に解離する.」
電離説誕生の瞬間です.
ファント・ホッフは彼の意見を好意的に受け止め,1887年に2人はオストワルトが創始したZeitschrift für physikalische Chemie誌の第1巻に発表しました.
浸透圧と電離に関する理論は,オストワルトの力もあって広く利用されるようになりました.中でもネルンスト (Walther Hermann Nernst, 1864-1941)による起電力への応用(1889年)は最重要といっても良いでしょう.
以上のように,1887年の論文は電離説がはっきりと打ち出されたものとしてアレニウスの重要な論文の一つとなりました.1903年には電離説に関する業績によりノーベル化学賞を受賞しました.
ここで一つ注意しておきたいのは,彼はこの論文でも酸塩基の定義をしていない,という点です.
博士論文の時と違い,今回はほとんど酸塩基の定義に関わるような表現は見当たりません.それどころか彼は,生涯にわたって自ら酸塩基を積極的に定義したことはないのです.
なのに「アレニウスの定義」と呼ばれるのはなぜでしょう?
5.「アレニウスの定義」とは?
ここまで見てきたように,1884年にその萌芽のあった電離説は,1887年論文によって実証されました.
電離説以降のアレニウスの酸塩基の考え方は,以下のようにみることができます.
酸とは水溶液中でH+イオンを与えるもので,塩基は水溶液中でOH-イオンを与えるものである.」
「水溶液中で」が加わっているのは,水に溶けたときに電離して,H+イオンやOH-イオンを与えるという電離説のイメージを踏まえているものだからです.
しかしこうした表現は,ここまでみてきたように博士論文でも,1887年の論文でもはっきりとは出てきません.あえて明確に述べているものを挙げるとすれば,1888年の論文でしょう.p. 289には導電率に関する定理に関連してこんな文章が登場します.
この定理は,塩基(または酸)は電解質であり,その溶液中のOH(またはH)の量によって特徴づけられるという見方(または定義)から導きだされるものである.
この表現は,電離説的な定義かというと微妙なラインです.あくまで,酸や塩基の性質を述べているに過ぎません.
アレニウスに近いオストワルトも,1889年に出版した自著『Grundriss der allgemeinen chemie』で水の電離について,
「水は酸の特徴的なイオンであるHと塩基のイオンであるOHに分解することができるが,これらのイオンは水中に極めて少量しか存在しないことが,これまで使用されてきたすべての測定法によって証明されている.
と説明しています*11.やはりここでも酸塩基は定義されず,代表的な性質として説明されています.さらに,特に誰の意見か?という点についても言及されていません.
一方でオストワルトの部下にあたるネルンストが他の研究者とともに1892年に出版した『Handbuch der anorganischen chemie』のp. 226には,酸や塩基の強さをめぐる過去の研究の混乱の歴史を踏まえた上でこんな記述があります.
これらの一見ややこしい関係は,ファン・ト・ホフ(1885)によって初めて認識され,アレニウス(1887)によって電離を起源とする,水溶液中の物質の例外的な挙動としての化学的質量作用の法則の適用によって,一挙に解明された.
ちょっと訳がこなれなくて申し訳ないですが,アレニウスの電離説がきっかけとなって見通しが良くなったよ,というのが大意です.そして,酸と塩基に関する反応がこれまで溶液の中性,酸性,塩基性といった性質の対立によって理解されていたものが,
アレニウスの見方によれば,[...] 溶液中の酸に特徴的な反応は,[…] 正電荷を帯びた水素イオン(H)を生成するという事実に基づいている.したがって,酸特有の化学作用は水素イオンによるものである.[…] これと同様に,溶液中の塩基に特徴的な反応は,この種の物質が解離する際に負に帯電した水酸化物イオン(OH)を生成するという事実に基づいている.したがって,塩基の特異的な作用は,水酸化物イオンの作用である.
と理解されると続いていきます.
重要なのは,これがアレニウスによる見方であると明記されている点です.アレニウスやオストワルトの文章では一般論的に語られていたものが,ネルンストの文章ではアレニウスの見方だと語られています.
このように,従来の酸塩基のイメージはネルンストの著作により,アレニウスの電離説の文脈で新たな装いに変身しました.
一方オストワルトは1894年,『分析化学の科学的基礎(Die wissenschaftlichen Grundlagen der analytischen Chemie)』と題する教科書において酸塩基を次のように定義しました.
水溶液が水素をイオンとして含むものは酸,OHイオンを含むものは塩基と呼ばれる.
ここにおいて,現在知られているような酸塩基の定義がはっきりと明示されました.
この第1版は英語,ロシア語,ハンガリー語をはじめとした様々な言語に翻訳され,電離説を踏まえた酸塩基の定義は世界中に広まっていきました.
このようにネルンストによってアレニウスの電離説に基づく酸塩基の性質が提示され,オストワルトによって酸塩基の定義が確立されました.
注意したいのは,オストワルトは「アレニウスの定義」とは言っていない点です.したがって,強いて言うならこれは「オストワルトの定義」ですね.
しかし電離説=アレニウスのイメージは強く,いつの間にか電離説の定義に基づくオストワルトの酸塩基の定義が「アレニウスの定義」として受容されていったのでしょう*12.
6.手広いアレニウス
アレニウスは電離説や,反応速度の温度依存性など,物理化学において重要な業績を残しました.
1887年以降,物理化学者としての地位を確固たるものにしたアレニウスですが,1888年にEdlundが亡くなってしまったことでスウェーデン国内での後ろ盾がなくなり,ポストを得るのは大変だったようです.
最終的には国外の研究者たちの支援もあり,1895年には無事ストックホルムの大学に職を得ることができました.彼の研究室は小規模で設備もあまり整っていませんでしたが,彼の名声は外国人研究者を惹きつけるのには十分すぎるほどでした.
彼の興味はやがて溶液から別の分野に移っていきました.
彼がまず興味を持つようになったのは溶液中の電気現象ではなく,地球大気中の電気現象です.1893年には友人の気象学者Nils Ekholmとともにオーロラなどに対する月の影響を調べたりしています.
1896年の長い回想録では,地球温暖化についての記述があります.氷河期の開始と終了を大気中の二酸化炭素の量の変化によって説明しようとしました.二酸化炭素の温室効果に着目し,二酸化炭素が2倍になったら北極地方の気温は8℃上昇すると計算しました.
他にも彼は火山噴火の原因を調べたり,太陽コロナ,彗星,オーロラなどの現象が放射線によってどのように引き起こされるか,あるいは影響を受けるかといった宇宙物理学的なことも調べています.
20世紀に入ると今度は生理学にも興味をもちはじめました.
それは,Thorvald Madsenによって提案された,物理化学的な考え方を血清療法に応用するというものです.1900年と1901年,アレニウスはMadsenとともにコペンハーゲンで,その後フランクフルトのEhrlichの研究室で実験を行いました.
エールリッヒは抗体抗原反応の専門家で,抗体と抗原の結合は強固な化学結合であると考えていました.一方アレニウスは抗体と抗原の結合が可逆的であり,通常の質量作用の法則に支配されると主張しました.のちにこれは免疫化学(immunochemistry)の基礎となりました.ちなみに免疫化学という用語は,アレニウスが考案したものです.
最後に,言語学者としてのアレニウスについても一つ紹介しておきましょう.彼は多くの言語を非常に巧みに使っていましたが,言語の機微を習得するのは時間の無駄だと考えていました.そこで彼は世界共通語を作るべきだと考え,簡略化した英語を考案しました.同じく世界共通語を作るべきだと考え,イド語に傾倒していったオストワルトに通じるところがありますね.
7.おわりに
よく知られている「アレニウスの定義」はアレニウス自身は定義していない,というのはびっくりでしたね.それを踏まえてよく専門書を見てみると,ちゃんとした本では注意深く書かれているのがよくわかります.自分の手元の本もチェックしてみてください.
さて,アレニウスが免疫化学の実験を行うために通ったエールリッヒの研究室には,そのちょっと前に生化学者として名を馳せたレオノール・ミカエリス (Leonor Michaelis, 1875-1949) が訪れていました.
彼はここでミトコンドリアの染色に関する研究を行っていましたが,のちに「アレニウスの定義」をさらに発展させた,新しい酸塩基理論を構築しました.
のちにブレンステッドに影響を与えた「ミカエリスの酸塩基理論」とは何だったのか?こちらについては次回紹介しましょう.
参考文献
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*1:いわゆるエリート層ではなかったため,エリート層だったCleveやThalenから冷たく扱われたという説があります.
*2:ウプサラ大学の監督管に任命されていましたが,報酬が少なかったためvon Essen伯がWijkに持っていた不動産の管理も行っていました.
*3:おそらく1882年にラウールの開発した,凝固点降下から分子量を測定する方法を知らなかったものと思われます.彼は100 g溶媒に1 g溶かした際の凝固点降下が分子量に比例することを見出していました.
*4:溶液中の反応を考えたのはウィリアムソンで,電荷をもつと考えたのはクラウジウスです.当時は組織や専門雑誌が整備され化学と物理学が独自に発達し,お互いのコミュニケーションの少なかった時代でした.にもかかわらず,化学ではウィリアムソンが,物理学ではクラウジウスが独立に似たような仮説に至ったのは不思議ですね.
*5:原文ではAzH4OH.トムセン (Julius Thomsen, 1826-1909)やコールラウシュはNH4OHの存在を否定していました.
*6:科学史家のPartintonも(推論の過程は不明ですが)この解釈をしています.
*7:BourgoinはKH+Oに,Kourlauschは一時はK+H+Oに分かれると考えていました.
*8:審査に当たったのはウプサラ大学のCleveやThalenでした.学位授与の日,ねぎらいの一言もかけずに歩き去ったことを,アレニウスはずっと根に持っていました.当時,溶液の導電性に関しては様々な理論が発表されては消えていったので,Cleveはアレニウスの理論もそんな理論のひとつだと思っていたようです.
*9:アレニウスは父親の病気と死によってウプサラに止まることにしました.
*10:他に,オリバー・ロッジとの議論も重要であったと考えられています.
*11:同様の表現はLehrbuch der allgemeinen chemie 第2版(1893) p.182 にも見られます.ちなみに第1版 (1885) にはそのような表現はありません.
*12:そして少なくとも1944年のカンザス大学の資料には「アレニウス酸(Arrhenius acid)」という表現が出てきます.おそらく「ブレンステッド酸(Brønsted acid)」という表現に対応して誕生したのでしょう.いつが初出か?という問題については自信が無いので,どなたかこれ以前の資料をご存知でしたらご一報ください.