このたび,ついに化学史好きが高じて化学史学会の学会誌『化学史研究』に私の論文が掲載されました!
一言で言えば,「ブレンステッドの定義は彼のオリジナルではなくて,生化学者ミカエリスが考えたものだよ」という論文です.
今回はその論文のご紹介です.
1.論文の概要
今回の論文は,「酸塩基の定義」に関わるものです.
「酸をH+を供与するもの,塩基はH+を受容するもの」という定義は,デンマークの化学者ブレンステッド (Johannes Nicolaus Brønsted, 1879-1947)による定義として習います.しかしブレンステッドの論文をよくよく読むと,H+に注目した酸塩基の定義はドイツの生化学者レオノール・ミカエリス (Leonor Michaelis, 1875-1949) *1によるものだと明記しています.
ミカエリスの酸塩基理論とは,一体どういったものだったのか?今回の論文ではその謎に迫るものとなっています.
論文中ではまずミカエリスがどのような人物なのか,その半生を紹介し,彼の酸塩基理論の内容とブレンステッドの酸塩基理論の比較をしました.ついでに,査読者の方からリクエストもありましたので,同年に同様の定義を発表したイギリスの化学者ローリー (Thomas Martin Lowry, 1874-1936)が酸塩基をなぜ定義したのか,どのような定義だったのかという点も軽く紹介しました.
詳しい内容は論文を見ていていただければと思うのですが,本記事ではせっかくですのでミカエリス自身の半生を紹介しておきたいと思います.
2.生化学者レオノール・ミカエリス
1875年,レオノール・ミカエリス (Leonor Michaelis, 1875-1949) はベルリンのユダヤ系商人Moritz Michaelis(1845–1908)のもとに生まれました.彼が幼少期に通ったKöllnisches Gymnasiumでは人文主義的な教育が主でしたが,化学や物理の実験室もあり,実験方法などを身につけることができました*2.
学校の先生は反対していたようですが,やがて彼は科学の道を志したいと考えるようになりました.科学でどう生計を立てることができるのか全然見当もつかなかったミカエリスは,手に職をつけられそうな医学を選び,1893年にベルリン大学に入学しました.
1897年にはカエル卵の卵割に関する博士論文を執筆し,同年には医師国家試験に合格しました.翌年には医学生のための発生学の教科書を出版しています.彼はその後,研究分野を発生学から生化学へとシフトさせていきましたが,生物学的な視点は生理学への関心という形で残り続けました.
学位取得後の1898年から1年間は免疫学者エールリヒ(Paul Ehrlich, 1854–1915)のもとで働き,Höchst社から販売されていたヤヌスグリーン(Janusgrün)が細胞内の特定の構造体を染色することを発見しました.これは同年,C. Bendaがミトコンドリアと命名したものでした.
ミカエリスは後年,エールリヒの研究スタイルを「化学研究の進歩を生物学に取り込む」と表現しました.これはミカエリスのその後の研究姿勢にも受け継がれています.
Richard Adolf Zsigmondy(1865–1929)とZeiss社のHenry Friedrich Wilhelm Siedentopf(1872–1940)がコロイド観察用に開発した限外顕微鏡でタンパク質溶液を観察した際,彼はコロイド化学と物理化学を知りました.
物理化学ではこの時期,アレニウス,オストワルト(Friedrich Wilhelm Ostwald, 1853–1932)らによってイオン説の理論化が進んでいました.さらに,1893年にはLe Blancの発見をもとに水素電極による水素イオン濃度の測定法が開発され,1897年には中和滴定に用いられるなど実験手法も確立しつつありました.
【参考】滴定の歴史(3):電極によるpH測定
ミカエリスは物理化学のエッセンスを生化学に取り込み,酵素活性の水素イオン濃度依存性を調べ始めました.
論文にしようという矢先,デンマークの生化学者セーレンセン(Søren Peter Lauritz Sørensen, 1868–1939)が先に似た内容の論文を発表してしまうなどのトラブルはありましたが,彼は酵素活性の理論をさらに推し進め,1913年,カナダからの研究員メンテン(Maud Leonora Menten, 1879–1960)とともに酵素反応速度に関する式を導出した有名な論文を発表しました.
ちょっと今風に書き直してみましょう.
これはいわゆるミカエリス–メンテンの式ですね.こうした酵素の反応速度論は1930年代以降本格的に知られるようになり,第二次世界大戦後に生化学の基礎概念としての地位を確立しました.
ミカエリスはこの時期,教科書などの出版物をいろいろ執筆しています.『水素イオン濃度:生物学における重要性とその測定方法』もその一つです.彼はこうした出版物によって世界的な名声を獲得することができました.
しかしながらミカエリスはドイツでは重要なポストを得ることはできませんでした.ベルリン大学では名ばかりの特命教授(Professor extraordinarius)の称号を得られましたが,給与も予算も研究室も与えられませんでした.
こうした不遇な状況は,もちろん法外な賠償金に苦しめられた戦後ドイツの財政難もあるのでしょうが,当時ドイツの大学で反ユダヤ主義が広まっていたことも要因の一つでしょう.ユダヤ人であるミカエリスだけでなく,他の研究者もなかなかポストを得るのに苦戦していました.
一方日本では,最近大学に昇格した愛知医科大学にだれか世界的に有名な研究者を呼べないか話し合いが行われていました.そこで白羽の矢が立ったのが,戦後ドイツで苦労していたミカエリスです.彼は1922年に日本にわたり,愛知医科大学医化学教室(のちの名古屋大学医学部生化学第一講座)で当初1年の予定を延長し,約3年のあいだ教授として教鞭を取りました.
あの世界的に有名なミカエリスが名古屋にいるという知らせは日本中に知れ渡り,聞いて集まった研究生らは生化学研究に精力的に取り組みました.1925年には日本生化学会が設立されるなど日本の生化学の発展に大きな影響を与えました.
一方でミカエリスは研究の傍らコンサートを開き,ヴァイオリン演奏を披露したこともありました.ある時,腕前に悩み相談しに来た若きソリスト志望の男性にこのような助言をしたそうです.
私のような科学者やあなたのような芸術家が思うように高く飛べないのであれば,私たちにはいつでも教えるという選択肢がある.
助言を受けた男性,鈴木鎮一(1898–1998)はのちにスズキ・メソードと呼ばれる音楽教育法をはじめました.
もちろんミカエリス自身は最も影響力のある極めて優れた生化学者で,「高く飛べない」ということはなかったでしょう.しかし彼は極めて優れた教育者でもあり,数多くの出版物を通じて知識,理論の普及に努めました.
そうした出版物のひとつ,『水素イオン濃度:生物学における重要性とその測定方法』(1922年)においてミカエリスは新しい酸塩基理論を提唱しました.
ミカエリスが注目したのは,当時話題になっていたボーア・ラザフォードの原子モデルです.
ボーア–ラザフォードの原子モデルにおいて,水素イオンH+は大変ユニークな存在です.なぜなら水素イオンH+のみが電子を持たない,「最小の”質量体”(das kleinste “Massengebilde”)」だからです.
そこでミカエリスは,水素イオンH+を中心とした新しい酸塩基理論を構築し,生理学への応用を試みたのです.
3.おわりに
あとの内容は,論文をご覧ください.国境・学問の垣根を超えた知の交流の一端が垣間見えると思います.
kagakushi.org
私の著書にもこのあたりの話は載せましたので,ぜひご購入いただけますと幸いです.
ブレンステッドの定義がミカエリスの酸塩基理論をもとにしていることは原論文にはっきり書かれているのですが,不思議と無視されてきました.みんな孫引きしているので,原論文をちゃんと読んだことがなかったのでしょう.ただ他人が引用したものを機械的に引用するのではなく,ちゃんと引用元を確認するのは大事ですね.