化学の教科書を読んでいて,「そういえばこの用語ってどんな経緯で生まれたんだろう?」とか,「この表記法って昔からこうだったのかな?」とか思ったことはありませんか?
実は2024年1月から,こうした疑問に対して化学史の側面から調査するワーキンググループ,「日本版Ask the Historian」を立ち上げ,活動を始めています.
今回はその内容について,ちょっとだけご紹介します.
1.Ask the Historian
「化学に関する疑問に歴史的アプローチで答える」という取り組みは,2003年から2009年にかけてアメリカ化学会の化学教育部門の学術雑誌Journal of Chemical Education誌で行われていました.
Ask the Historianと題されたプロジェクトは,以下のようなミッションを掲げていました.
読書や学生との交流を通じ,私たちはしばしば,研究や教育で使用する方程式,記号,用語,概念の起源に関する歴史的疑問に遭遇する.また,教科書やインターネットに掲載されている伝記的逸話の歴史的妥当性に疑問を抱くことも多いだろう.Ask the Historianは,シンシナティ大学のOesper Collections in the History of Chemistryの広範な歴史的リソースに基づき,化学史に関連する質問に対する権威ある,厳密に文書化された回答を得るためのリソースをあらゆるレベルの教師に提供する.
少々小難しいことも書かれていますが,要は「もし化学を教えていて歴史に関する疑問があったら専門家が答えるコーナーを作りましたよ!」ということです.
具体的にどんな記事があったのか見たほうが早いので,一覧をみてみましょう.
どれも興味深い話題ばかりですね!用語の語源や,概念の成立史,実験器具の開発史などが扱われていました.
どの記事も大体1ページくらいの分量で解説されていました.中にはここではじめて整理された情報などもあったので,化学史研究としても非常に価値の高いものだったと言えます.
2.William B. Jensen
Ask the Historianで回答を任されていたのが,アメリカのシンシナティ大学の教授,William B. Jensen(1948-)教授です.彼は無機化学,化学教育,化学史の研究者として知られます.
彼が化学史に興味を持ったのは,7年生の時,公立図書館でウィークスの『元素発見の歴史』を見つけたことがきっかけでした.
それ以来,化学史にずっと興味を持ち続けたようで,のちに「研究に生涯を捧げるにあたって,概念や技術の歴史への関心を失わずにはいられなかった」と語っています.
彼は1970年に化学科を卒業し,1972年に化学と教育で修士号を取得,1982年に有機化学で博士号を取得しました.したがって,彼は「歴史家」ではなく「化学者」としてキャリアをスタートさせたのです.
彼はあるとき,科学史の助成金か化学の助成金か,どちらかを選択する必要に迫られました.歴史家になるよりも科学者のほうが就職のチャンスが大きいと考えた彼は.「歴史に興味を持つ化学者」になることを決断しました.
彼はロチェスター工科大学で無機化学の助教授 (1983-1986)を勤めたのち,シンシナティ大学の化学史・化学教育学のOesper Professorと呼ばれるポジションに任命されました*1.
彼は1988年から化学史の専門誌Bulletin for the History of Chemistry誌の創刊編集者として,またシンシナティ大学の化学史博物館のキュレーターとして化学史研究に貢献しました.
彼は1960年代以降の科学史研究についてこんな言葉を残しています.
「1960年代以降に専門化が進んだ科学史研究がもたらした悲劇は,実際の科学者の関心から科学史研究がどんどん遠ざかっていってしまったことです.このギャップを埋め,化学史の知識が化学の理解を計り知れないほど豊かにすることを確信させるまたとない機会を与えてくれたのが,歴史学科ではなく化学科にある,Oesperのポジションでした.」
Ask the Historianというプロジェクトは,こうした「ギャップを埋める」活動の一貫であったといってもよいでしょう.
3.化学教育における化学史の効用
William B. Jensen教授が「化学史の知識が化学の理解を計り知れないほど豊かにする」と語ったように,化学史は使いようによっては化学教育に大きな力を発揮します.
例えば1982年,林良重先生は『化学教育』でこのように語っています.
「化学史教材を化学教育に活用する意図も,化学を面白く教えるところにある.(中略)文科系の生徒の感想の中には,化学に対するコンプレックスが解消して,化学がひじょうに身近なものと感じられるようになったという報告が,筆者らの研究グループのメンバーから寄せられている.」
また,2020年には河野俊哉先生が『化学と教育』でこのように語っています.
「初期の化学教室の伝統形成に大きな影響力を持ったのが,櫻井錠二が行っていたという「化学史」を用いた「化学」の教授法だという.(中略) 日本が今後も化学でトップレベルを維持する鍵は,日本独自の伝統を取り込んだ研究材料・手法や教育が一つのヒントになるのかもしれない.」
もちろん人によって意見は様々かと思いますが,私も化学史は大きな力を秘めていると考えています.
よく挙げられるメリットは,例えば以下のようなものがあります.
1.歴史の流れとパラレルに理解を深化させられる.
2.非合理的にみえる事柄に説明を与えられる.
3.知識の定着を補強するうえで有効な,別角度からのエピソードを提供できる.
1については,例えば従来教育に取り入れられている理論化学などの学説史などが挙げられます.しかしながら,学説史は「当時の考え方」や状況を正確に自分の頭にインストールしないと追えない部分が多いので,本当に初学者にとってわかりやすいのか?という点は注意しなければいけません*2.また,現代の価値観に従って過去を評価するという構造になりやすいのも注意が必要でしょう*3.
2については,たとえば表記法や分類法,訳語などが挙げられます.無味乾燥に感じやすいトピックですが,歴史的背景を知ると「こんな思想があったのか!」と純粋に面白かったりします.個人的には好きなのですが,面白さにたどり着くためにだいぶ深掘りしなければいけないのが難しい点です.
3については,化学反応の発見エピソードや,歴史的活用事例などが挙げられます.化学者の人間味だったり,化学と社会の交流だったりが一番わかる話題で,私が最も重視しているポイントです*4.
特に3番目は話のネタにも使いやすいのでおすすめです.私が「ネタ帳」を出版したのも,そうした背景からです.
化学史は「なんでそんな古い話をわざわざ学ぶのか」や「それは別に化学の理解にはつながらないな…」と思われやすい分野です.しかし,メリットに挙げた3番目 (や2番目) をちょろっと雑談風に話すだけで,知識の定着を補強することができるのではないか?と個人的には考えています*5.
ときに,ロジックよりもストーリーのほうが人に伝わりやすかったりします.しかし本筋から外れすぎると教育効果は薄れますので,両者のバランスが重要ですね.
4.日本基礎化学教育学会での取り組み
このように,化学史は大きな力を秘めているように感じられるものの,なかなかそのトピックを自力で調べ上げることは困難です.そこで,日本基礎化学教育学会で「日本版Ask the Historian」という取り組みをはじめました.
日本基礎化学教育学会とは,1990年に日本私学研究所化学研究室研究員の宮田光男先生の呼びかけによって発足した「中学・高校の先生方を中心とした学会」です.現在は研究会が月に1回開かれており,演示実験や化学史の話題で皆さん発表されています*6.
日本基礎化学教育学会公式サイト
2023年12月,その研究会で私が「酸塩基理論の歴史的背景」という話題で化学史のお話をしたところ,会長の齊藤幸一先生が化学史と化学教育をより近接させていく必要性について語ってくださいました.
そして年末には齊藤先生のご発案で,2024年1月より「日本版Ask the Historian」をスタートさせることになりました.
日本版Ask the Historianでは,会員の皆様からメールやフォーム,対面で質問を募集し,それに対して化学史的な調査を行い,発表するというスタイルをとっています.私自身は調査側ですが,ちゃんとした化学史研究者かどうかは微妙なところですので,様々な方々のお力をお借りしながら調査を進めています.
現在はJournal of Chemical Education誌の過去の記事を参考に追加調査を行うことで,「アボガドロ定数とmolの起源」や「化学結合の表記法」などについて発表しています.これらは化学者の思想とも深く関わっているので,調べていて存外面白かったです.
他にもメールベースの回答も含めれば,「リトマスの歴史」や「トラウベの人工細胞」「十酸化四リンの乾燥剤としての歴史」「Elementの語源」など,短期間にもかかわらず様々な話題を調べさせていただきました.
こうした話題についてはいずれここでもお話できればと考えております.もし他にも知りたいことがございましたら,ぜひこちらのフォームからご連絡ください.@kagaku_netachoや質問箱にご連絡頂いても構いません
5.おわりに
日本版Ask the Historianはまだまだスタート段階で,どのように展開していくかは未定です.ぜひ,質問や展開のアイデア等ございましたらご連絡いただけますと幸いです.
今後はこれまでのような長編シリーズは控えめにして,日本版Ask the Historianや個別に頂いた質問などをベースにした記事を不定期に更新していこうと考えております.気長にお待ちいただけますと幸いです.
参考文献
“William B. Jensen (1948–“ Division of History of Chemistry of the American Chemical Society (2006).
林良重「化学史教材と化学教育について」化学教育,30, 127-132 (1982).
河野俊哉「櫻井錠二と東京大学理学部化学教室における化学教育の伝統」化学と教育,68, 12-15 (2020).
齊藤幸一 「日本基礎化学教育学会の活動(化学教育を支える私的研究会)」化学と教育,45, 189-192 (1997).
伊勢田哲治「ウィッグ史観は許容不可能か」Nagoya journal of philosophy, 10, 4-24 (2013).
横山輝雄「科学史記述の二類型」南山大学紀要『アカデミア』人文・自然科学編,15, 1-8 (2018).
山田 俊弘, 小澤 実, 河村 豊, 中尾 暁, 多久和 俊明, 隠岐 さや香「小特集 今日の科学史リテラシーとは : ヒストリオグラフィーと教授戦略」科学史研究, 59, 260-303 (2020).
*1:1956年に第1回デクスター賞を受賞した故Ralph E. Oesperの寄付により作られた職でした.
*2:私が理論化学史を控えめにしているのはそれが理由です.
*3:現在主義的な語り方は教育という文脈においては必ずしも全否定されるものではないですが,取り扱いが難しいと感じています.注釈をつけることで回避するということも考えられますが,それが「初学者にとってわかりやすい」科学史の語り方かというと微妙なところです.こうした注意は2番目,3番目のメリットについても同様です.
*4:特に無機分析化学の歴史は他所であまりまとまった形では語られてなかったので,これまで積極的に取り上げてきました.
*5:私個人としては,科学史を中等教育に取り入れる際は「記憶に残りやすい興味深いエピソード」に絞るのが現実的だと思っています.もっと科学史を軸に据えたい場合はある程度の知識を前提に,「科学史の語り方」について聞き手が正面から受け入れる準備をする必要があります.こちらは科学史の専門家の方に担っていただくのがふさわしいでしょう.
*6:私は大学教員という立場ではありますが,高校の先生方の教育法を学ぶ目的で参加させていただいています.外様にもオープンな研究会で,毎回楽しく学ばせていただいております.