硝酸合成法は色々と開発されてきましたが,波に乗ることが出来たのはアンモニアを酸化するオストワルト法です.
オストワルト法はどのように誕生したのでしょうか?そもそもオストワルトはどんな人なのでしょう?
今回はオストワルト本人を主人公に,オストワルト法誕生の経緯と,そのしくみを見ていきましょう.
酸の歴史(1):酸とはなにか?
酸の歴史(2):錬金術と硫酸
酸の歴史(3):鉛室法の発明
酸の歴史(4):染料と接触法
酸の歴史(5):硝酸と硝石
酸の歴史(6):オストワルト法
酸の歴史(7):塩酸
酸の歴史(8):リン酸
酸の歴史(9):フッ化水素酸
1.オストワルト法
アンモニアの酸化として知られるオストワルト法ですが,アンモニアの酸化そのものは古くから知られていました.
例えば1789年,イギリスのQueens' Collegeの学長だったIsaac Milner (1750-1820) は,亜硝酸の製法を発表しています.Milnerは熱く熱した銃身にマンガンの灰とアンモニアを通すと窒素酸化物が生じることを示しました.
また,1839年,Charles Frédéric Kuhlmann(1803-1881)は白金を付着させた石綿上にアンモニアと空気の混合ガスを通じると赤色のガスを生じることを発見しました.
当時白金は大変高価でしたが,Kuhlmannはこのような言葉を残しています.
白金と空気でアンモニアを硝酸に変えることが経済的でないとしても,この方法が利益をうみだす産業となる時が来るかもしれない.(中略)そしてきっと,戦時下で十分な量の硝石を得ることができないかもしれないという政府の不安を和らげるだろう.
実際には,このアプローチが現実のものとなるには60年以上待たなければいけませんでした.
この手法を実践レベルに引き上げたのがドイツのオストワルト(Friedrich Wilhelm Ostwald, 1853-1932) です.
オストワルトは1853年,ラトビアのリガでドイツ人の両親のもとに生まれました.ラトビアは政治的にはロシア帝国の一部でしたが,文化的にはドイツの一部のような地域でした.この時代はちょうどロシアからパン=スラブ主義の波が押し寄せていました.
教育面でいえば,当時のラトビアでは,実用的な知識を重視する近代的なドイツ式教育法とロシア式の昔ながらの文化的教育法が併存していました.そんななかで,お父さんはドイツ寄りの教育を行ってくれる新しい学校に通わせてくれました.
オストワルトは学校で物理や化学,数学を学んだほか,音楽や美術に親しみ,興味の赴くままにいろんなものに挑戦していました.
学校では生徒同士の本の交換が盛んだったようです.そこで友達から花火作りの本を手に入れ,自分で花火を自分でつくってみようともしました.
台所のオーブンで照明弾を爆発させてしまったりしたようですが,両親は活動を禁止することなく,実験遊び用に屋根裏部屋を用意してくれました.
他にも足りない絵の具を自分自身で調合してみたり*1,お父さんの葉巻箱とお母さんのオペラグラスでカメラをつくり,写真用の試薬を作ってみたりしていました.単なるアイデアや思いつきを実践にうつす喜びは,少年オストワルトにとってかけがえのないものになりました.
オストワルトは大学で無機化学を学び,溶液中での反応に次第に興味を深めていきました.特に化学反応のしやすさや,酸の密度・屈折率,熱など物理化学的な性質が研究対象でした.これらは物理化学の基礎*2となりました.
1881年にリガ工科大学に移ってから, オストワルトは酸によるエステル*3の加水分解反応 (1883年) を研究しました.当時有機化学者たちがエステルに濃縮した塩酸や硫酸などを加えて分解して酸やアルコールに変換しているのを知り,何が起きているのかを調べようと思ったようです.
この反応では,酸が加水分解の触媒として働きます.酸そのものは消費されないのですが,酸を加えることによって,加水分解反応がとても起きやすくなります.
彼はまた,臭素酸HBrO3とヨウ化水素HIの反応も調べました.ここでも,酸が触媒として働きます.
オストワルトはこうした研究を通じて,触媒は反応を「誘発」させるものではなく,「加速」させるものだという発想に至りました*4.
彼は触媒研究の知見を何か実用的なものに応用しようと考えました.その一環として,1900年頃に取り組んだのがアンモニア合成だったことは以前紹介した通りです.鉄を触媒としてアンモニア合成に成功した!と思いきや,実際には失敗していたのでした.
【参考】アルカリの歴史(8):ハーバー・ボッシュ法
この頃,ドイツでは第二次ボーア戦争 (1899-1902) が話題になっていました.戦争では南アフリカに移り住んだオランダ系,ドイツ系移民のボーア人とイギリスが争っており,ドイツの世論は反イギリスでした.オストワルトはもしイギリスとドイツが戦争になったら,南米のチリ硝石が海上封鎖で入ってこなくなるんじゃないかと恐れました.
1901年秋,同僚で植物生理学者ペッファー (Wilhelm Friedrich Philipp Pfeffer, 1845-1920) と話していた時もそんな話題になりました*5.悲観的なペッファーに対して,オストワルトは「答えを見つけるのはドイツの化学者の義務であり,この問題は解決できる」と断言しました.
その時オストワルトが着目したのは硝酸の製造です.よく考えたらアンモニアはコークス製造のときに生産されるので,わざわざ作らなくても大丈夫でしたので,まだ活用されていないアンモニアの酸化反応を実用化すればよいのではないかと考えたようです.
彼はまず,学生とともにビーカーに濃いアンモニア水を数滴いれ,熱した白金線を入れました.すると,白金は光り続け,ビーカー内は二酸化窒素NO2の赤い霧で満たされました.
これを水に吸わせたところ,アンモニアの半分以上が硝酸に変換されました.
次に,より硝酸を収率よく得ようとガスと触媒の接触時間を長くしてみました.すると予想に反して収量が落ちてしまったのです.
よくよく調べてみたところ,生成した一酸化窒素NOが白金触媒によって分解してしまっていたことがわかりました.
白金触媒との接触時間は,長すぎてもダメということで,条件の最適化が必要だとわかりました.
こうして反応条件と収率の対応関係を詳しく調べ,確立されたのがオストワルト法です.
1908年にはGertheの工場が稼働し,月に130トンも硝酸ナトリウムを生産していたようです.
もともとアンモニアは石炭ガスやコークス製造の際に同時に得られたものを使っていましたが,ちょうど同時期にBASF社がアンモニアの直接合成法を開発したので(ハーバー・ボッシュ法),オストワルト法は硝酸を作る上で非常に有利な合成法になりました.
当初は白金触媒の寿命や調達が問題となっていましたが,第一次世界大戦中に急速に研究開発が進みました.BASF社のミタッシュはロシア産の白金を使わない触媒を探し,鉄をベースとした効率的な触媒を発見しました.希硝酸の濃縮法も改良し,99%硝酸を製造できるまでになりました.
【参考】アルカリの歴史(9):戦争とアンモニア
こうしてオストワルト法は硝酸製造法としての地位を確固たるものにしました.
オストワルト法は世界中に広がりました.日本では明治に入ってからしばらくはチリ硝石によって硝酸が製造されていましたが,1928年に日本窒素肥料会社の延岡工場でオストワルト法が導入されました.
はじめ,オストワルト法は大気圧 (約100 kPa) で行われていましたが,1920年代にステンレス鋼が広く普及すると圧力をかける方式が次々に開発されました.
例えば,アメリカではDuPont社が8気圧 (800 kPa) という高圧で,イタリアではFauserが5気圧 (500 kPa) 前後の中圧で行う装置が開発されました.
のちに説明するように,高圧では水への吸収が促進されますので,硝酸の製造に有利です.ただし,凝縮器などには高価なニッケルクロム鋼などが必要でした.
2.オストワルト法のしくみ
それでは,オストワルト法のしくみを詳しくみてみましょう.
STEP 1. アンモニアの酸化
はじめのステップはアンモニアNH3の一酸化窒素NOへの酸化です.
適切な触媒を選べば,おおよそ93-98%が変換されます.
未反応のNH3は,笑気ガスN2O,そして窒素ガスN2へと酸化されます.
温度が低い (200-400℃) とこうした反応が進行しやすいようです*6.
また,生じたNOは分解したり,
アンモニアと反応してしまったりするので注意が必要です.
触媒としては白金がよく使われていますが*7,安い他の金属でも可能です.しかしながら反応効率が悪かったり,他の物質によって触媒の活性が低下しやすい(被毒)など,デメリットがいろいろあります.
白金を触媒として用いる場合,ヒ素As,硫黄Sなどの化合物,酸化鉄の粉塵は白金触媒の働きを阻害するため,アンモニアの精製が重要です.
かつて,アンモニアは石炭ガス,コークス製造において副生したものを利用していました.こうしたアンモニアは硫黄化合物やピリジン,ピロールなどが含まれており,これが悪さをします.
不純物に含まれる代表的な硫黄化合物は硫化水素H2Sで,これは石灰水で洗浄することで除去することができます.
ピリジンなどの有機化合物は重鉱油もしくはアントラセン油に吸わせて除去しました.
また,アンモニアは石灰窒素法で生成させることもできます.しかし石灰窒素法で得られたアンモニアにはアセチレンC2H2やホスフィンPH3などが含まれており,これらも白金触媒の働きを阻害しますので同様に除去する必要がありました.
一方でハーバーボッシュ法で合成されるアンモニアはこれらと比べると純度が高くクリーンです.そのため,オストワルト法と大変相性が良かったようです.
STEP 2. 一酸化窒素の酸化
さて,次のステップは一酸化窒素NOの酸化です.NOは二酸化窒素NO2へと変換されます.
生成した二酸化窒素NO2は以下のような平衡状態にあります.
結果として,ガス中にはNOの他にNO2,N2O3,N2O4が存在することになります.
STEP 3. 水への吸収
生じた窒素酸化物は水に吸われると,以下のように亜硝酸HNO2や硝酸HNO3を生じます.
生じた亜硝酸は,硝酸と一酸化窒素へと分解します.
結果として,トータルでは以下のように表すことができます.
窒素酸化物の吸収ステップでは水を使っていますが,これにより生成される希硝酸はその後煮詰めても68.4%以上の濃度にすることは困難です.硝酸と水が共沸してしまうからです.
そこで,それよりも濃い濃硝酸を製造する場合は,例えば水に吸収させるのではなく,発煙硫酸のときと同じように硝酸に吸収させる方法があります.シンプルですね.
この他にも,硝酸を蒸発させてから硫酸H2SO4や硝酸マグネシウムMg(NO3)2により水を吸収させ,濃縮する方法があります.
圧力との関係
水へ吸収させるステップでは,圧力が高いほど効率よく吸収が進行します.一方で,アンモニアの燃焼反応はどうでしょうか?
通常採用される800-1000℃では水が気体であることに注意すると,ルシャトリエの原理によれば圧力が高いとわずかに正反応が不利になります.
そこで理論上は,燃焼はあまり圧力をかけず,吸収では圧力をかけるのが良さそうです.かつては燃焼も吸収も大気圧 (約100 kPa) で行っていましたが,吸収を230-600 kPaで行うようになりました.
実用上は,圧力を高くすると装置を小型化できるというメリットもあります.そのため,やがて燃焼段階でも圧力をかけるようになり,ヨーロッパを中心に燃焼を中圧(230-600 kPa),吸収を高圧(700-1100 kPa)で行う方式が広がりました.
ただしこのように二種類の圧力をかける装置を建造するには,特殊な素材を用いる凝縮器などが必要とされコストがかさみます.
そこで,両方高圧でやってしまう方法も普及しています.
3.多彩なオストワルト
オストワルトはこうした研究成果により1909年にノーベル化学賞を受賞しましたが,オストワルトはすでに化学の最前線の研究からは身を引いていました.
代わりに彼が力を入れたのは,研究者のための環境整備です.
円滑に研究内容を伝え合うためには,基準や規格などが揃っている必要があります.国や研究者コミュニティによって違っていたら,お互いの研究を理解するのも一苦労です.
そこで彼は原子量を定める国際原子量委員会の仕事に長年関わったり,産業界との連携を密にするための組織を設立し,それが色分類のための体系的なシステムであるオストワルト表色系を考案したりしました.紙の規格にも関わったようですが,彼の基準は採用されませんでした.
また,彼はエスペラントに代わる人工言語,イド語にも注目していました.どういうことでしょう?
そもそもエスペラントは世界中の人が使えるようにと1887年にザメンホフ(Ludwik Łazarz Zamenhof, 1859-1917)によって人工的に作られた言語ですが,スペルなどがチェコ語の影響をかなり受けていてみんなが使いづらいんじゃないかという懸念がありました.
そのため,オストワルトとしては1908年に開発されたイド語を推していました.イド語の活動にノーベル賞の賞金の半分をこの研究に費やしたという話まであるのですから驚きです.
当時,化学者たちは自身の研究を英語,ドイツ語,フランス語などいろんな言語で発表しており,さらに学会や雑誌では1年ごとにこうした研究をロシア語やイタリア語などに要約する必要に迫られていました.これは大変非効率です.
そこでオストワルトは,各国の研究者が自身の研究をみんなイド語で発表する世界を夢見ていました.実際,化学論文をイド語に翻訳するのはそこまで難しくなかったようです.
しかしながら,こうした夢は第一次世界大戦の勃発によって水の泡となってしまいました.
他にも哲学やエネルギー論など多彩な活動を繰り広げていますが,化学者としての印象が強いためか,あまり触れられる機会はないようです.
彼の挑戦は時には失敗に終わることもありましたが,自由な発想で挑戦し続けてきました.そうした気質は,きっと幼少期の"遊び"と地続きだったのでしょう.彼にとって,ノーベル賞につながった硝酸製造法は,自身のアイデアを試す"遊び"のひとつだったのかもしれません.
4.まとめ
オストワルト法は現在でも硝酸の製造に使われています.オストワルト本人の人となりを知ると,また違って見えてくるのではないでしょうか?
次は塩酸の歴史を見てみましょう.
参考文献
"ULLMANN'S Encyclopedia of Industrial Chemistry" Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA (2002).
"Vitriol in the hisotry of chemistry" V. Karpenko and J.A. Norris, Chem. Listy 96, 997-1005 (2002).
"History of Analytical Chemistry" F. Szabadváry, Pergamon press (1966).
"The Ammonia Oxidation Process for Nitric Acid Manufacture" L.B. Hunt, Platinum Metals Rev., 2, 129-134 (1958).
"The Manufacture Of Nitric Acid And Nitrates" C. Allin (1923).
"Nitrogen Capture" A.S. Travis (2018).
"Wilhelm Ostwald: The Autobiography" Springer (2017).
"Wilhelm Ostwald" F.E. Wall, Journal of Chemical Education 25, 1-10 (1948).
"On catalysis" W. Ostwald, Nobel Lecture (1909).
"Processes for the Manufacture of Nitric Acid" G.Drake (1963).
『ルブランの末裔』久保田宏,伊藤輪恒男,東海大学出版会 (1978).
『硝酸』井上嘉亀,化学教育, 16, 15-18 (1968).
『酸,アルカリ及肥料 上巻』庄司務 (1936).