化学と歴史のネタ帳

身近にひそむ化学と歴史を,高校までの知識をベースに解説する化学史系ブログです.

アルカリの歴史(9):戦争とアンモニア

アンモニアは肥料の原料だけでなく,火薬の原料としても重要でした.よく,ハーバーボッシュ法の発明によってドイツは戦争を決断したという話があります.


本当にそうでしょうか?

朝鮮窒素肥料 興南工場

今回はドイツ,イタリア,日本を例にハーバーボッシュ法と戦争の関わりを見ていきましょう.



アルカリの歴史(1):炭酸ナトリウム
アルカリの歴史(2):ルブラン法
アルカリの歴史(3):アンモニアソーダ法
アルカリの歴史(4):カリウム塩
アルカリの歴史(5):電気分解
アルカリの歴史(6):塩化アンモニウム
アルカリの歴史(7):アンモニアと石灰窒素
アルカリの歴史(8):ハーバー・ボッシュ法
アルカリの歴史(9):戦争とアンモニア

1.窒素固定法のおさらい

さて,ここであらためて,第一次世界大戦までの窒素利用に関する状況についてまとめてみましょう.

ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群(チリ).Pablo Trincado氏が撮影. rewbs.soal (CC-BY-2.0), https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4085423

既に解説したように,窒素は植物にとって重要な栄養素であり,小麦などの肥料としても有効でした.特に南米から輸入されていた主成分が硝酸ナトリウムNaNO3チリ硝石はヨーロッパの農業において重要な窒素源でした.ドイツも1880年代以降チリ硝石に大きく依存するようになりました.
【参考】黒色火薬の歴史(2):硝石


また,1860年代以降ドイツのStassfurtで生産されるようになった塩化カリウムKClを活用することで,黒色火薬の原料となる硝酸カリウムKNO3を合成することもできました.
【参考】アルカリの歴史(4):炭酸カリウム
 \mathrm{NaNO_3 + KCl \longrightarrow KNO_3 +NaCl}


チリ硝石からは硝酸HNO3を製造することもできましたので,トリニトロトルエン (TNT, 1863年)*1ニトログリセリン (1866年) などの爆薬製造にも用いられました.
 \mathrm{2NaNO_3 + H_2SO_4 \longrightarrow 2HNO_3 +Na_2SO_4}



硝酸塩はこのように重要な化合物でしたので,空気中の窒素から人工的に合成する方法も検討されました.

Svælgfoss発電所

山の多いノルウェーでは1900年頃から流れの速い河川を利用した水力発電が行われるようになりました.その余剰電力を用いることで電気化学が発展しました.
酸の歴史(5):硝酸と硝石


1897年にレイリー卿 (John William Strutt, 3rd Baron Rayleigh, 1842-1919)が放電を用いることで窒素と酸素を組み合わせる技術を提案して以来*2アメリカのCharles Schenk Bradley (1853-1929) やRobert D. Lovejoy (1853-1929) が1902年にナイアガラの滝水力発電を利用した硝酸製造にトライするなど,放電による窒素固定(硝酸製造)がホットな話題となっていました.
 \mathrm{N_2 +O_2 \longrightarrow 2NO }
 \mathrm{2NO + O_2 \longrightarrow 2NO_2 }
 \mathrm{3NO_2 + H_2O \longrightarrow 2HNO_3 + NO}


1903年,このニュースを知ったノルウェーのエンジニアのSamuel Eyde (1866-1940) は物理学者のKristian Olaf Bernhard Birkeland (1867-1917) とともにレマルクの滝水力発電を活用し,硝酸製造を成功させました(電弧法).


こうして製造された硝酸と石灰石を反応させて得られた硝酸カルシウムはノルウェー硝石として流通し,肥料として利用されました.
 \mathrm{2HNO_3 + CaCO_3 \longrightarrow Ca(NO_3)_2 + CO_2 + H_2O }

1912年頃使われていた反応炉 By David Aasen Sandved - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30890854

ドイツのBASF社も1905年に電弧法の確立に成功し,ノルウェーのFiskåに工場を建設しました.


また,この頃,空気中の窒素をアンモニアの形で固定する方法も開発されました*3


Adolf Frank (1834-1916) とNikoden Caro (1871-1935) は1900年,電気炉内で合成したカルシウムカーバイドCaC2からアンモニアを合成する方法(石灰窒素法)を開発しました*4
【参考】アルカリの歴史(7):アンモニアと石灰窒素
 \mathrm{CaCO_3 \longrightarrow CaO + CO_2 }
 \mathrm{CaO + 3C \longrightarrow CaC_2 + CO }
 \mathrm{CaC_2 + N_2 \longrightarrow CaCN_2 + C }
 \mathrm{CaCN_2 + 3H_2O \longrightarrow CaCO_3 + 2NH_3}


そして1913年,窒素と水素を触媒上で直接合成させてアンモニアを製造するハーバー・ボッシュ法が確立しました.
【参考】アルカリの歴史(8):ハーバー・ボッシュ法
 \mathrm{N_2 + 3H_2 \longrightarrow 2NH_3 }


アンモニアから硝酸を製造する技術は,1902年にオストワルトが特許を出願していました.
【参考】酸の歴史(6):オストワルト法
 \mathrm{4NH_3 +5O_2 \longrightarrow 4NO + 6H_2O }
 \mathrm{2NO + O_2  \longrightarrow 2NO_2 }
 \mathrm{3NO_2 + H_2O \longrightarrow 2HNO_3 + NO}

ロシアで産出する貴重な白金を触媒とする合成法でした.

2.第一次世界大戦アンモニア

よくある誤解に,「ハーバー法がなければ,ドイツが戦争を始めたかどうかは疑わしい」というものがあります.また,「ハーバーの素晴らしい発見がなければ,第一次世界大戦の最初の3ヶ月でドイツは経済的にも軍事的にも崩壊していただろう」というものもあります.


実際のところはどうだったのでしょう?


前節で紹介したように,第一次世界大戦開戦時点では窒素利用に関してチリ硝石を用いる他に,電弧法,石灰窒素法,ハーバー・ボッシュ法などの合成法がありました.


そもそも論ですが,ドイツは何も最初から長期戦を見込んでいたわけではありません.フランスとロシアという強国に挟まれていたドイツは,シュリーフェンプランに従ってフランスに速攻を仕掛けた後,反転してロシアに攻め込んで短期決戦で勝利するという図を描いていました.そのため,窒素源がどうだとか,そういった事情はあまり考えられていませんでした.

マルヌ会戦

しかし開戦からわずか約1ヶ月後,フランスに攻め込んでからマルヌ会戦で進軍が食い止められると西部戦線は膠着し,消耗線の様相を呈することとなりました.シュリーフェンプランはこの時点で瓦解しました.


元々の備蓄やベルギー軍が放棄したチリ硝石を用いることで当座をしのぐことはできましたが,大規模な長期戦争の需要を満たすには足りません.塹壕戦で瞬く間に消費される弾丸や,海戦で必要となる魚雷や砲弾に大量の窒素化合物が必要でした

フォークランド沖海戦

12月にはフォークランド沖海戦でイギリスが勝利し,南米からヨーロッパへのチリ硝石輸送ルートは連合国側が支配しました.これにより,ドイツはチリ硝石に頼ることができなくなりました.


こうした状況下で,ドイツにおいて注目を集めたのは石灰窒素法でした*5


石炭窒素法のエネルギー消費量はハーバー・ボッシュ法よりもはるかに多いものでしたが,設備は比較的シンプルですみます.政府は石灰窒素法に頼ることに決め,1915年,石灰窒素法の拡大計画に資金を投じることにしました.


石灰窒素法で重要なのはエネルギー源ですが,これには安価な褐炭による火力発電が用いられました.そのため,窒素化合物の生産は石炭の供給に大きく依存してしまいました.


また,石炭窒素法は高度な設備は必要としないものの,石灰やコークスをハンマーで細かくくだいたり,カルシウムカーバイドCaC2を手で砕くなどかなり手作業が必要でした.


一方でボッシュは比較的初期の段階から硝酸の重要性を見抜いており,ハーバー・ボッシュ法の工場拡張に向けて動いていました.硝酸製造法についてはミタッシュがロシア産の白金を使わない触媒を探し,をベースとした効率的な触媒を発見しました.希硝酸の濃縮法も改良し,99%硝酸を製造できるまでになりました.


初期の主役の座は石灰窒素法に奪われたものの,ハーバー・ボッシュ法は石灰窒素法のように大きなエネルギーを必要とせず,労働力も少なくてすみます.これは,戦争が長期化するに従って大きなアドバンテージとなるはずです.彼らは着々と製造拡大の手はずを進めていきました.


ドイツでは過負荷の鉄道網の影響もあり工場では石炭が不足しがちになり,さらに軍事目的での窒素利用のため肥料生産も厳しい状況でした.1916年から1917年にかけての厳しい冬はジャガイモや肉があまりにも不足してしまい,カブが主食の代わりとなり「カブラの冬」と呼ばれました.


この時期は戦争遂行上で非常に重要な時期でした.1916年はヴェルダンの戦いソンムの戦いで激しい攻防が続いていました.戦況が思わしくない中,農業にまわす窒素の余裕は全くありませんでした.


負けるか,飢えるか.政府が信じる石灰窒素法はこの状況を救えるのでしょうか?

カブの配給切手

結局,現況を打開したのはハーバー・ボッシュ法でした.

Leunaの工場 (1934) By Bundesarchiv, Bild 102-15752 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5415547

1917年4月,空爆されにくいという場所ということでLeunaに建設された新たな工場が稼働しはじめました.アンモニア生産能力は年間160,000 t規模です.Leunaで初日に合成されたアンモニアは,「フランスに死を! (Franzosen-Tod!)」とチョークで書かれたタンク貨車でOppauに運ばれ,硝酸アンモニウムNH4NO3と硝酸に転換されました.
 \mathrm{NH_3 + 2O_2 \longrightarrow HNO_3 + H_2O }
 \mathrm{NH_3 + HNO_3 \longrightarrow NH_4NO_3 }

これにより,ドイツの硝酸アンモニウム製造能力は大幅に改善し,軍事だけでなく農業に回す分も確保できるようになりました.


このように,実質的にはLeunaの工場が稼働し始めた1917年4月以降,終戦まで約1年半の間のみハーバー・ボッシュ法アンモニア生産の主役となりました.


つまり,ハーバー・ボッシュ法第一次世界大戦で果たした役割は限定的だったというわけです.

3.イタリア

戦後,BASF社はなんとか優位を保とうと秘密を死守しますが,各国で高圧アンモニア合成研究が活発化し*6,窒素利用を取り巻く世界情勢は大きく変化しました.

ガリポリの戦い By Archives New Zealand from New Zealand - Landing at Gallipoli, CC BY-SA 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=47036764

イタリアでは戦時中,ダーダネルス海峡封鎖によりロシア・ルーマニア産の穀物が入ってこなくなりました.ただでさえ農地を確保しづらい土地柄ですから,単位面積あたりの収穫量の増加が見込める合成窒素肥料が切実に必要とされました.


はじめはカローらが開発した石灰窒素法が主に使われていましたが,やがてアンモニアの直接合成法をイタリアにも導入しようという動きが出始めました.
【参考】アルカリの歴史(7):アンモニアと石灰窒素


ネルンストの研究室から戻ってきたカザレー(Luigi Casale, 1882–1927) は1916年からアンモニア合成法の開発に取り組みました.そして1919年までに,安価な鉄くずを触媒として800気圧(!)で動作するアンモニア合成装置を開発しました (カザレー法).


旧約聖書イザヤ書には以下のような一節があります.

彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い,多くの民のために仲裁に立たれる.こうして彼らはその剣を打ちかえて,鋤とし,その槍を打ちかえて,鎌とし,国は国にむかって,剣をあげず,彼らはもはや戦いのことを学ばない.

まさにこの「剣を鋤に"swords into ploughshares"」の通り,試作機は戦艦ダンテ・アリギエーリで余っていた大砲の砲身を再利用したものでした.

戦艦ダンテ・アリギエーリ

イタリア海軍では砲身は高圧下に耐えられるように製造されており,その特徴をうまく活用した形です.


800気圧という圧力は無闇に高すぎる印象があるかもしれませんが,実は非常に合理的でした.


ハーバー・ボッシュ法で用いられる200気圧前後では生成したアンモニアは,高温での分解を防ぐため,高価な冷却装置で冷やして液化し,取りださなければいけませんでした.


一方で800気圧という圧力下では常温の水で冷却するだけで液化することができます.そのため,高価な冷却装置は不要というメリットがありました.

Giacomo Fauser (1892–1971)

カザレー法はこのように革新的な技術でしたが,イタリア国内ではファウザー(Giacomo Fauser, 1892–1971) が確立したアンモニア合成法(ファウザー法)の方が広まりました.


ファウザーは1919年,BASF社からハーバー・ボッシュ法のライセンスを得ようと交渉に出向きますが追い返され,結局古い榴弾砲を再利用して独自にアンモニアを合成しました.1920年には約500℃,250気圧で毎日100 kgのアンモニアを合成したそうです.


彼は翌年,水素の大規模生産に適した水の電気分解装置の特許を取得しています.イタリアは山が多く川の流れが速く,水力発電に適した土地でした.


ファウザー法はアンモニア合成そのものに工夫があるというよりは,むしろKOH水溶液の電気分解による水素製造,
 \mathrm{2H_2O + 2\textit{e}^{-} \longrightarrow H_2 + 2OH^{-} }

アンモニアガスへの硫酸噴霧による硫酸アンモニウム(NH4)2SO4製造,
 \mathrm{2NH_3 + H_2SO_4 \longrightarrow (NH_4)_2SO_4 }

そして高圧化でのアンモニアの酸化などと組み合わせたパッケージにあると言えます.
 \mathrm{4NH_3 + 5O_2 \longrightarrow 4NO + 6H_2O }
 \mathrm{2NO + O_2 \longrightarrow 2NO_2 }
 \mathrm{2NO_2 \longrightarrow N_2O_4 }
 \mathrm{2N_2O_4 + O_2 + 2H_2O \longrightarrow 4HNO_3 }


ファウザー法がイタリアで広まった大きな要因に,モンテカティーニ社に気に入られたという点が挙げられます.モンテカティーニ社は戦争中に成長した化学企業で,戦後は肥料事業に高い関心があったようです.


1925年,ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini, 1883-1945)が独裁体制を構築した頃,輸入高などによってイタリア経済は深刻な状況に陥り,小麦や石炭の価格が異常に上昇していました.

小麦戦争を訴えるムッソリーニ

ムッソリーニ政権は穀物の完全自給を目指す「小麦戦争Battaglia del Grano」プロジェクトをはじめました.「外国のパンへの隷従からイタリア人民を解放する」という主旨です.


ムッソリーニ政権の支援を受けてモンテカティーニ社は国内の窒素肥料事業を牛耳るようになり,国内製造量の70%はファウザー式を中心とする同社が担い,国内流通のほぼすべてを支配しました*7


こうしてイタリア中に広まった合成窒素肥料製造技術によりイタリア国内の穀物生産は一気に増加し,1933年には自給率100%*8を達成し,ムッソリーニ小麦戦争の勝利を宣言しました.


1935年,エチオピアに侵攻したイタリアに対して国際連盟経済制裁を科しました.国民からすれば「外国小麦への隷従から解放し,ファシズムこそがイタリア人にパンを与える」というプロパガンダがひどく現実味を帯びた出来事でした.


これをきっかけとして,イタリアは自給自足的な「アウタルキー政策」へと舵を切り,1937年に国際連盟を脱退,ドイツや日本に接近していきました.

4.大日本帝国

野口遵 (1873-1944)

石灰窒素法を日本に導入した後,広島での事業トラブル*9で弱っていた野口遵(1873-1944)は,1921年,周囲の勧めにしたがいイタリアを訪れていました.


この頃,日本では高圧アンモニア合成技術が話題となっており,各社がBASF社のOppau工場を訪れ,ライセンスの交渉を行ったりしていました.イタリアでも鈴木商店などのライバル会社がカザレーの方法を視察していました.


イタリアに渡った野口は,偶然カザレーの技師からアンモニア合成の話を聞かされ,工場を見学することになりました.装置の実物を見て「ひょっとするとものになるかもしれない」と考えた野口はカザレーと会うことにしました.


ローマで出会ったカザレーからは,特許の売却に1000万リラを提示されました.こんな大金はさすがに即断できません.野口は電報で日本窒素肥料本社に連絡しました.専務取締役から突然予定にない大金が必要な話を知らされ,本社で大騒ぎになったそうです.協議の結果,無事話はまとまり,契約に至りました.


その後,日本窒素肥料は延岡(1923年),そして水俣(1925年)に工場を建設し,窒素肥料の製造を推し進めました.延岡工場の合成塔,清浄塔,圧縮機は旭化成ケミカルズ愛宕事業場敷地内の「カザレー記念広場」に移設され保存されており,日本化学会より化学遺産に認定されています.


このとき,原料となる水素は電気分解によって製造していました.水力発電の余剰電力が活用できた点は,日本とイタリアは非常によく似ていたといえます.


さて,野口は次の段階として,当時日本軍の支配下にあった朝鮮半島を見据えていました.


国内の窒素需要に応えるべく水力発電に適した土地を探していたところ,大学で同期だった森田一雄(1872-1966)に朝鮮半島北部の赴戦江を紹介されたようです.今で言う,中国国境近くの北朝鮮北部に位置します.半島北部には大規模水力発電に使える手付かずの水資源が残されていました.

鴨緑江にある水豊ダム (1937年着工)

こうして野口は1926年,赴戦江に巨大な水力発電所を建設しはじめました.その落差は合計で1067 m,第一発電所だけでも落差はなんと732 mに達しました.当時ヨーロッパで落差最大のイタリアのアダメロン水力発電所でも最大で457 mでしたから,その途方もないスケールが実感できます.


当時,朝鮮総督府水力発電事業を三菱にも依頼していました.しかし1930年,アメリカの世界恐慌が波及し日本でも恐慌が訪れ(昭和恐慌),三菱は水力発電への投資に消極的な姿勢を見せていました.


水力開発を進め一般電力の供給を目指す朝鮮総督府と,投資に後ろ向きな三菱とのあいだにすれ違いを見てとった久保田豊(1890-1986)は,野口に三菱が担当している長津江の開発を提案しました.こうして野口らは「三菱がやらないなら私がやってもいい」と名乗りをあげ,1933年,長津江の開発も手がけるようになりました.

朝鮮窒素肥料 興南工場

結果として,日本窒素肥料朝鮮半島水力発電を活用した水の電気分解による水素製造とアンモニアの直接合成を組み合わせた事業を確立しました.


こうした朝鮮半島における動きは,やがて満州事変で占領した満州国の開発へとつながっていきました.

5.おわりに

さて,ハーバー・ボッシュ法の開発で培われた高圧下での化学反応制御技術はメタノール合成やガソリン製造をはじめとした様々な分野に応用されました.
 \mathrm{2H_2 + CO \longrightarrow  CH_3OH }

ボッシュはこの業績により1931年,ノーベル化学賞を受賞しました.工業分野としては初の受賞となりました.


ハーバー*10と違いボッシュは戦争にそこまで積極的ではなかったように思いますが,こうした反応もまた第二次世界大戦で活用されたのは皮肉な歴史です.


さて,9回に渡ってアルカリの歴史をみてきましたが,いかがでしたでしょうか?ただの化合物にも意外な歴史が隠れていることを実感していただけたのではないかと思います.


今度教科書を見る際は,是非,「どんな歴史があるんだろう?」と調べてみてください.きっと面白い歴史が隠れているはずです.もしリクエストがございましたら,お気軽にフォームからご連絡ください.または@omizu_water3 や質問箱( https://peing.net/omizu_water3 )にご連絡頂いても構いません



参考文献

"ULLMANN'S Encyclopedia of Industrial Chemistry" Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA (2002).
"Nitrogen Capture" A.S. Travis (2018).
"On catalysis" W. Ostwald, Nobel Lecture (1909).
"Entrepreneurial Typologies in the History of Industrial Italy: Reconsiderations" F. Amatori, The Business History Review, 85, 151-180 (2011).
『ルブランの末裔』久保田宏,伊藤輪恒男,東海大学出版会 (1978).
『歴史の中の肥料 [4] アンモニア合成への道(2)』高橋英一,農業と科学(2005).
『大気を変える錬金術』T. ヘイガー,みすず書房(2010)
『硝酸』井上嘉亀,化学教育, 16, 15-18 (1968).
『酸,アルカリ及肥料 上巻』庄司務 (1936).
『酸,アルカリ及肥料 下巻』庄司務 (1937).
『パンと祖国:ファシズムの小麦戦争』新谷崇,立命館言語文化研究,32, 23-37 (2020).
第一次世界大戦後の野口遵ー延岡アンモニア合成工場建設までの空白の時間をめぐってー』大塩武,経済研究, 160, 71-90 (2020).
『赴戦江の開発計画をめぐる森田一雄と日本窒素肥料の野口遵』大塩武,経済研究, 161, 71-93 (2021).
北朝鮮電源開発をめぐる日本窒素肥料の野口遵と久保田豊 ―長津江・虚川江・鴨緑江の開発条件をめぐって―』大塩武,経済研究, 164, 39-54 (2022).


目次 - 化学と歴史のネタ帳

*1:軍事用途は1902年にドイツの砲弾に使われてから.

*2:イデアそのものは18世紀,Henry Cavendish, 1731-1810)キャヴェンディッシュの観察に遡ります.

*3:もともとアンモニアは石炭を乾留すると少しだけ得られるものでしたが,これだけではもちろん足りませんでした.

*4:肥料としては途中生成される石灰窒素CaCN2や,アンモニアを硫酸と反応させてできる硫酸アンモニウムが用いられました. \mathrm{2NH_3 + H_2SO_4 \longrightarrow (NH_4)_2SO_4}

*5:このほか,石炭の乾留で得られるアンモニアや,ノルウェーからの電弧法でつくられた窒素化合物の供給も重要でした.

*6:ドイツと直接対峙していたフランスは,なんとか自国でも高圧アンモニア合成を実現したいということで戦時中,秘密裏に研究が進められていました.1918年11月の休戦前に,Georges Claude (1870-1960) は約1000気圧という超高圧下,500℃での合成実験を行い,これを成功させました.非常に高圧でしたので,アンモニア合成効率は非常に高く,再循環させなくても未反応の窒素と水素は10%にとどまりました.また,触媒も活性の低いものでOKでした.ただし,超高圧条件では金属が腐食しやすいという問題もあり,当初なかなか普及しませんでした.

*7:同社は多角化をさらに推し進め,1930年代の終わりまでに国内化学産業の80%以上を支配するに至りました.

*8:自給率の達成のみを目的としたため投資費用がかさみか価格が上昇し,貧しい人は小麦を買えなくなってしまいました.

*9:広島電灯の取締役だった野口は,自身の発言権低下を恐れてライバル会社である広島呉電力との合併に頑なに反対し,また水利権をめぐるトラブルから社内で揉めて広島電灯を辞めざるを得ず,同社を足がかりに「中国地方の電力統一による一大化学工業建設」という夢を描いていた野口は挫折を味わったようです.

*10:第一次世界大戦では,液化塩素ガスを鋼鉄製シリンダーにつめこみ,風上から敵軍へむけて塩素ガスを放出する戦術を考案しました.1915年4月22日,第2次イーベルの戦いで実践され,初回は約5000人の,次の回は約1万人の死傷者を出しました.妻はこうした行いに胸を痛めて自殺したと言う説がありますが,立証はされていないようです.