化学と歴史のネタ帳

身近にひそむ化学と歴史を,高校までの知識をベースに解説する化学史系ブログです.

アルカリの歴史(2):ルブラン法

炭酸ナトリウムは様々な工業で必要とされ,やがて最初の工業製法であるルブラン法が開発されました.

ルブラン法による炭酸ナトリウム製造炉(1890年)

ルブラン法とは,どんな製造法なのでしょうか?


今回は,ルブラン法以前の英仏の取り組みや,ヨーロッパ情勢に翻弄されたルブランの人生,環境問題とイノベーション,そして環境と経済の狭間で苦悩したアルカリ監査官の胸の内などを,仕組みを踏まえてみていきましょう.



アルカリの歴史(1):炭酸ナトリウム
アルカリの歴史(2):ルブラン法
アルカリの歴史(3):アンモニアソーダ法
アルカリの歴史(4):カリウム塩
アルカリの歴史(5):電気分解
アルカリの歴史(6):塩化アンモニウム
アルカリの歴史(7):アンモニアと石灰窒素
アルカリの歴史(8):ハーバー・ボッシュ法
アルカリの歴史(9):戦争とアンモニア

1.イギリスでの挑戦

18世紀になると,ヨーロッパではさまざまな工業が発展しました.中でもガラス製造や石鹸製造では,原料となる炭酸ナトリウムNa2CO3炭酸カリウムK2CO3,いわゆるアルカリの需要がどんどん高まっていました.
【参考】洗濯(4):アルカリ剤
【参考】洗濯(2):石鹸の歴史
【参考】アルカリの歴史(1):炭酸ナトリウム


当時,炭酸ナトリウムは天然,もしくは養殖の塩生植物や海藻類から得られていました.なかでも最高級品であるスペイン産のBarillaは炭酸ナトリウムが20-33%含まれていました.その栽培はスペインの専売特許であり,Barillaの種子を国外に持ち出すことは固く禁じられていました.ランクの落ちる他の海藻だと5-8%程度でしたが,それでもスコットランドの昆布焼き職人などは大金持ちになったそうです.

Halogeton sativus

他にアルカリとしては炭酸カリウムK2CO3が主となる樹木灰もありましたが,北西ヨーロッパでは森林資源が枯渇しつつありました.


アルカリへの需要が高まる中,各国ではその供給を不安視する声があがり始めていました.


イギリスでは海藻類に加え植民地アメリから輸入した樹木灰もあり,炭酸ナトリウムや炭酸カリウムなどの植物性のアルカリは不足しているわけではありませんでした.しかしながら年によって輸入量には変動があり,安定してアルカリを合成することができたら良いのにと常々思っていたようです.


原料として目をつけられたのは,です.

Johann Rudolf Glauber (1604-1670)

17-18世紀ヨーロッパでは,いろんな種類の塩が報告されていました.例えばドイツの薬剤師グラウバー ( Johann Rudolf Glauber, 1604-1670) が1625年ころ,自分の病を治すのに用いた奇跡の塩"sal mirabilis"こと硫酸ナトリウムNa2SO4はその代表で,後にグラウバー塩とも呼ばれました.
  \mathrm{2NaCl + H_2SO_4 \longrightarrow Na_2SO_4 + 2HCl}


1730年代,フランスの植物学者デュモンソー (Duhamel du Monceau, 1700-1782) は塩について詳しく調べ,これがアルカリからなることを示しました.アルカリは塩の基体になっているので,塩基 (base) と呼ぶようになりました*1


デュモンソーは塩に固定されているアルカリを取り出すため,塩と硫酸で生成したグラウバー塩にを混ぜ,その後加熱することで炭酸ナトリウムNa2CO3を生成できることを示しました.
  \mathrm{Na_2SO_4 + 2C \longrightarrow Na_2S + 2CO_2 }
  \mathrm{Na_2S + 2CH_3COOH \longrightarrow 2CH_3COONa + H_2S }
  \mathrm{2CH_3COONa \longrightarrow Na_2CO_3 + (CH_3)_2CO }

こうして得られたアルカリ,炭酸ナトリウムは,トロナ植物灰に含まれるものと同じであることを示しました.
【参考】アルカリの歴史(1):炭酸ナトリウム


このことに目をつけたのが,イギリスのブラック(Joseph Black, 1728-1799) やワット(James Watt, 1736-1819),ローバック (John Roebuck, 1718-1794)らでした.1766年から実験を始め,1770年にはキア (James Keir, 1735-1820)も実験に参加しました.


デュモンソーの硫酸や酢を用いる方法はコストが高かったため,よく反応性が知られていた石灰Ca(OH)2の反応性に注目し実験を進めていました.そして1771年,キアは硫酸ナトリウムと石灰からアルカリである水酸化ナトリウムNaOHを作る方法を確立しました.
  \mathrm{Na_2SO_4 + Ca(OH)_2 \longrightarrow CaSO_4 + 2NaOH }

硫酸ナトリウムは,塩酸を製造する際の副生物として得られましたので,コスト的にはギリギリ見合うラインでした.

ロングアイランドの戦い (1776年)

1775年に勃発したアメリカ独立戦争によりアルカリの輸入が途絶えると,人工的なアルカリ製造の機運が高まり,実践に移す人々が次々に現れ始めました.


このように,イギリスではアルカリを人工的に製造するソーダ産業が芽を出し始めていました.


しかしイギリスはアメリカ産の樹木灰が使えなくてもスコットランド産の昆布を使えばよかったので,あまりソーダ産業は成長しませんでした.

2.フランスでの挑戦

一方,海を挟んだフランスでは当時,スペイン産のBarillaを大量に輸入していました.年間で1500万kgにのぼったと推定されています.
【参考】アルカリの歴史(1):炭酸ナトリウム

ビーゴ湾の海戦(1702年)

この頃,フランスとスペインは王位を巡りスペイン継承戦争 (1701-1714),オーストリア継承戦争 (1740-1748) などで争っており,スペインからの供給が不安定になっていました.こういった事情から,アルカリを安定して大量供給できる方法が求められていました.


1776年,ベネディクト会サン・ジェルマン・デ・プレ修道院で哲学を教えていた薬屋のマレルブ (Joseph-François Marie Malherbe, 1733-1827) がグラウバー塩Na2SO4*2からNa2Sを生成し,これに鉄*3を加えることで水酸化ナトリウムNaOHを合成する方法を開発しました.
  \mathrm{2NaCl + H_2SO_4 \longrightarrow Na_2SO_4 + 2HCl}
  \mathrm{Na_2SO_4 + 2C \longrightarrow Na_2S + 2CO_2 }
  \mathrm{2Na_2S + 2Fe + O_2 + 2H_2O  \longrightarrow 4NaOH + 2FeS }

1段階目の反応は加熱しないと完全には進行しないことに注意しましょう.副生成物として漂白などに利用価値の高い塩酸HClが得られる点も良かったようです.


商業化にあたっては,原料を安定に調達できることが大事です.ここでネックになったのは硫酸H2SO4です.

鉛室法

当時硫酸は,1746年にローバックが開発した鉛室法によって合成されていました.
 \mathrm{4KNO_3  \longrightarrow 2K_2O + 4NO + O_2}
  \mathrm{2NO + O_2 \longrightarrow 2NO_2 }
  \mathrm{S+ O_2 \longrightarrow SO_2 }
  \mathrm{SO_2+ NO_2 \longrightarrow SO_3 + NO }
  \mathrm{SO_3 + H_2O  \longrightarrow H_2SO_4 }


ここでは硝石KNO3硫黄Sが原料となっています.硝石は爆薬の製造に必要なため,戦争時にはフランス軍によって徴収されてしまう可能性があります.そうすると硫酸の合成は一気に難しくなります.


商業化にあたり相談を受けた職人のAthénasは,硫酸鉄FeSO4を用いる方法を考案しました.硫酸鉄は,硫酸の原料として錬金術の時代から知られていたものでした.
【9/17更新予定】酸の歴史(2):錬金術と硫酸
 \mathrm{2FeSO_4 \longrightarrow Fe_2SO_3 + SO_2 + SO_3}
 \mathrm{SO_3 + H_2O \longrightarrow H_2SO_4}
  \mathrm{2NaCl + H_2SO_4 \longrightarrow Na_2SO_4 + 2HCl}

硫酸を用いない彼の改良法は戦争に左右されない供給源を確保するという観点で重要でした.

チェサピーク湾の海戦(1781年)

フランスは1778年にアメリカ独立戦争に参戦し,アメリカや北欧からのアルカリ輸入が厳しくなりました.これらのアルカリは樹木灰で,炭酸カリウムを多く含むものでした.


フランスではラヴォアジエをはじめとした化学者の貢献もあり,爆薬の原料として戦争に必要な硝石KNO3の生産工程の理解が進んでいました.実験の結果,効率的な硝石製造には炭酸カリウムの活用が有効であることが注目されていました.
【参考】黒色火薬の歴史(2):硝石
 \mathrm{Ca(NO_3)_2 + K_2 CO_3 \longrightarrow 2KNO_3 + CaCO_3}

国としては,炭酸カリウム*4の確保が戦争を継続する上で重要な課題でした.


炭酸カリウムは当時,洗濯やガラス製造にも使われていました.しかしこれは別のアルカリ,炭酸ナトリウムでも良いわけです
【参考】洗濯(4):アルカリ剤
【参考】洗濯(2):石鹸の歴史

一方で火薬には炭酸カリウムでなければなりません


もし炭酸ナトリウムを安定に供給できるようになれば,洗濯やガラス製造には炭酸ナトリウムを使い,貴重な炭酸カリウムは硝石製造にまわすという使い分けができます


そこでフランス科学アカデミーは1781年に炭酸ナトリウムの人工製造を目的として「塩のアルカリ化」というテーマを設定し,受賞者には賞金を与えることを発表しました.


賞に応募者が殺到すれば,良いアイデアも出てくるかもしれません.しかしながら実際には応募は全然集まりませんでした*5.化学者たちは賞金に応募するよりは,から政府にかけあって,独占的な特権を得ることに注力したようです.

Louis-Bernard Guyton de Morveau (1737-1816)

例えば1782年頃,ド・モルボー (Louis-Bernard Guyton de Morveau, 1737-1816) は鉄の存在下でNaClCa(OH)2からNa2CO3を得る方法を実用化しました.これはシェーレが1779年に提案していました
 \mathrm{2NaCl + Ca(OH)_2 + CO_2 \longrightarrow Na_2CO_3 + H_2O + CaCl_2}

飽和食塩水をCa(OH)2とまぜ,白く吹いてきた粉 (Na2CO3) をがんばって手でかき集めるというものでした.ちょっと大変ですね.


ド・モルボーは財務総監に直接手紙を書いて,政府が望む場所ならどこにでも工場を建設するので特権がほしいと訴えました.他にも様々な化学者たちが自身の開発した方法の有用性をアピールし,特権を求めています.


一方で1788年頃,シャプタル (Jean-Antoine Chaptal, 1756-1832) は,シェーレ (Carl Wilhelm Scheele, 1742-1786) が1770年に提案していたリサージ (一酸化鉛) PbOと塩から水酸化ナトリウムNaOHを作り出す方法を実用化しました.
 \mathrm{2NaCl + (\mathit{n}+1) PbO + H_2O \longrightarrow 2NaOH + PbCl_2 \cdot \mathit{n}PbO  \qquad (\mathit{n} = 5 {-} 7)}

副生物として得られるPbCl2・nPbO (n = 5-7)黄色の顔料*6として絵画*7に使われていました.リサージは安くはないのですが,副生成物が売れるのはメリットでした.


このようにフランスでは様々な方法が考案・実践されました.1789年時点で少なくとも工場は7つあり,うち5つは炭酸ソーダを製造していました.


しかしながらイギリス同様,フランスのどの製法もコストがかかり過ぎ,工場経営は主に副生成物の売却などによって成り立っていました.また出来上がったアルカリは品質面でも天然モノに太刀打ちできる物ではありませんでした

3.ルブラン法の誕生

Nicolas Leblanc (1742-1806) By MOSSOT - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=74526465

炭酸ナトリウムを安定に大量生産することが可能になったのは,フランスの化学者ニコラ・ルブラン(Nicolas Leblanc, 1742-1806)がルブラン法を開発し,工場の操業が波に乗ってからです.
 \mathrm{2NaCl + H_2SO_4 \longrightarrow Na_2SO_4 + 2HCl}
 \mathrm{Na_2SO_4 + 2C \longrightarrow Na_2S + 2CO_2}
 \mathrm{Na_2S + CaCO_3 \longrightarrow Na_2CO_3 + CaS}

マレルブの方法に似ていますが,3番目が違いますね.1789年頃考案されたと言われています.最後の生成物は炭酸ナトリウムNa2CO3だけでなく硫化カルシウムCaSや炭が混じった黒灰と呼ばれる状態ですが,水で洗えば炭酸ナトリウムが得られます*8


ルブランは医者としてパリで診療所を開き,1780年からオルレアン公(Louis Philippe II Joseph, 1747-1793)のお抱えの医者になるほど成功を収めました.化学に興味を持つようになったのはそれからで,40代の頃でした.


ルブランはフランス科学アカデミーの賞の話を聞いた1784年から炭酸ナトリウム合成法に興味を持つようになり,自分でも検討を始めました.


1789年,彼は編集者Jean-Claude Delamétherie (1743-1817) がJournal de Physique誌で提案した方法をみつけました.Delamétherieはイギリスでのソーダ産業の動向に触れたあと,Na2SO4を炭と一緒に熱するとNa2CO3が得られるという方法について記述していました.
 \mathrm{Na_2SO_4 + C \longrightarrow Na_2CO_3 + SO_2 \quad ?}

しかしながら実際にはこれは正しくなくNa2Sができます. 
 \mathrm{Na_2SO_4 + 2C \longrightarrow Na_2S + 2CO_2 }

ルブランは自分で実験してみてNa2CO3ができたと勘違いし,そのまま嬉々としてボスであるオルレアン公に報告し,資金援助を求めました.


オルレアン公はDarcetが実験が正しいことを確認できたら事業を始めようと提案しました.Darcet自身は忙しかったので,実際には助手のJérôme Dizé (1764-1852) に検証実験を任せました.


当然ですが,検証実験中に失敗が発覚しました.


ルブランはあの時は上手くいったんだと主張し,もう一回チャンスをと懇願しました.Darcetはオルレアン公への報告書の提出を遅らせ,猶予を与えました.ルブランとDizéは3ヶ月間昼夜を問わず実験を続けました.


何回も何回も実験を繰り返すなか,あるときDizéはたまたま鉄製フラスコの溶液中でNa2Sを石灰石CaCO3とまぜていました.すると他の条件と比べて明らかにNa2Sの量が減っていたのです.


Darcetに報告したところ,溶液じゃなくて固体でやってみたらとアドバイスを受けました.そうしてついに,3番目の反応が誕生しました*9
 \mathrm{Na_2S + CaCO_3 \longrightarrow Na_2CO_3 + CaS}

Saint-Denis (1830)

こうして人工合成法を開発したルブランは,フランス革命で発足した国民議会から15年間の特許を得ることに成功し,オルレアン公の支援によりSaint-Denisに最初の工場が設けられ,1日に300 kg作り出すことができるようになりました.


しかしフランス革命後の情勢不安によって硫酸H2SO4を入手することが難しくなってしまいました*10.また4月にオルレアン公が投獄されてからは資金調達にも苦しみ,1793年7月には工場を閉業しなければいけなくなりました.オルレアン公はその年の11月に断首刑となり,工場は革命政府の所有物となりました.


1800年5月にようやく戻ってきた頃*11には長い間工場が放置されていたことや資金難の問題*12もあり,操業はうまくいかなかったようです.ルブランは結局,1806年1月16日に銃で自殺してしまいました.


フランスでルブラン法の工場に期待が持てるようになるのは,1809年に原料である塩にかかっていた税*13ソーダ製造業に対して免除*14され,政府の支援をうけるようになった時期です.1810年から成功の兆しが見え始め,やがて発展していきました.

4.ルブラン法とHCl

戦争状態にあった英仏の緊張がアミアンの和約(1802年) で緩和し,イギリスから人がフランスに訪れるようになりました.そこでルブラン法を知ったイギリス人*15は早速母国に知識を持ち帰りました.


産業革命期にあったイギリスでは,すでに鉛室法が開発されており,硫酸が安く手に入る状況でした.
 \mathrm{2SO_2 + 2H_2O + O_2 \longrightarrow 2H_2SO_4}

また1823年には塩税が減税され,さらに1825年には廃止されています.そのため,塩も安く手に入りやすくなっていました.


こうした原材料の価格下落も手伝い,1823年,ルブラン法の本格的な工場がリバプールに建設されて以降,炭酸ナトリウム製造が拡大していきました*16反射炉から回転炉への転換,耐火材の開発などは製鉄業にも応用されました.


こうしてソーダ灰の価格は1818年の183ポンドから1824年には25ポンド,1861年には8ポンドまで下落しました.

ルブラン法による炭酸ナトリウム製造炉(1890年)


ちなみに炭酸ナトリウムは石灰水と反応させると水酸化ナトリウムNaOHに変化させることができます*17
 \mathrm{Na_2CO_3 + Ca(OH)_2 \rightleftharpoons 2NaOH + CaCO_3  }

平衡反応ですので,炭酸ナトリウムに対して石灰を過剰にいれる必要があります.


反応後は濃縮していくのですが,ここにはまだ未反応のNa2Sが残っていて純度に影響します.そこで,例えば硝酸ナトリウムNaNO3を加えると未反応のNa2Sを硫酸ナトリウムに変換することができ*18,純度は85%くらいまであげられます*19
 \mathrm{Na_2S + NaNO_3 + 2H_2O \longrightarrow Na_2SO_4 + NaOH + NH_3}
 \mathrm{Na_2S +2NaNO_2 + H_2O \longrightarrow Na_2SO_3 +2NaOH + N_2 }


もっと純度を高くしたい場合は酸化亜鉛ZnOを加えます.
 \mathrm{Na_2S + ZnO + 2H_2O \longrightarrow 2NaOH + ZnS}

これで92-93%くらいまで純度を向上させることができます.こうして得られたNaOHも,いろんな用途に活用されました.


さて,このようにルブラン法が発展した一方で,ルブラン法特有の問題も浮き彫りになっていきました.


ルブラン法では,副生物としてHClガスと固体のCaSが生じます.1 tの炭酸ナトリウムを得るのに,HClは0.75 t,CaSは2 t生じます.
 \mathrm{2NaCl + H_2SO_4 \longrightarrow Na_2SO_4 + 2HCl}
 \mathrm{Na_2S + CaCO_3 \longrightarrow Na_2CO_3 + CaS}


HClは工場から放たれるがままでしたので,雨に混じって酸性雨として周囲の農地や森林,建物を荒らし,家畜に被害をもたらしていきました.これは住民運動,さらにら工場経営者と都市・農地経営者との訴訟バトルに発展しました.


煙突を高くするなどいくつか解決策が試されましたが,これは結局被害を拡大するだけでした.1836年にはWilliam Gossage (1799-1877)によって効率よく水に吸わせる手法が確立されました.

吸収塔

これは現在化学工場で使われるガス吸収装置の始まりです.


しかしこれを導入すると費用がかかり生産効率も落ちるので,何らかの後押しが必要でした.


工場への普及を推し進めるべくイギリス貴族院は重い腰をあげ,1863年にはそれまでの公害法の不備を改めてHClガスの排出を95%削減することを求めるアルカリ法 (Alkaili Act) を制定しました*20


HClガスを水に吸わせて除去させるのは工場経営者にとっても悪い話ではありませんでした.塩酸HClは布や紙の漂白にも使えましたし,水の消毒にも使うことができました.
【参考】浄水(3):ろ過や塩素による消毒

また,Scheeleが1774年に示していたように塩素ガスに変換することもできます.
 \mathrm{ MnO_2 + 4HCl \longrightarrow MnCl_2 + Cl_2 + 2H_2O }


こちらはもともと軟マンガン鉱MnO2*21無駄使いするため大規模な実施は困難でした.しかし法規制に後押しされる形で1866年に Walter Weldon (1832-1885)がマンガンを回収する方法を開発し*22,実用化しました(Weldon法).
 \mathrm{ MnCl_2 + Ca(OH)_2 \longrightarrow CaCl_2 + Mn(OH)_2 }
 \mathrm{ 2Mn(OH)_2 + Ca(OH)_2 + O_2 \longrightarrow CaO \cdot 2MnO_2 + 3H_2O }
 \mathrm{ CaO \cdot 2MnO_2 + 10HCl \longrightarrow CaCl_2 + 2MnCl_2 + 2Cl_2 + 5H_2O }


また,Henry Deacon (1822-1876)は1872年にHClの酸化反応を利用して塩素を製造する方法を実用化しました (Deacon法).
 \mathrm{4HCl + O_2 \longrightarrow 2Cl_2 + 2H_2O}

Deaconは触媒として塩化銅CuCl2を使用していました.
 \mathrm{2CuCl_2 \longrightarrow Cu_2Cl_2 + Cl_2}
 \mathrm{2Cu_2Cl_2 + 4HCl + O_2 \longrightarrow 4CuCl_2 + H_2O}


このようにして得られた塩素ガスはさらし粉*23を作るのに使われました.
【参考】洗濯(7):塩素漂白の誕生
 \mathrm{2Ca(OH)_2 + 2Cl_2 \longrightarrow CaCl_2 \cdot Ca(ClO)_2 \cdot 2H_2O}


こうして法規制によってイノベーションが促され,図らずも1870年代に登場したソルベイ法に対してルブラン法に延命の道を与えることとなりました.

5.ルブラン法とCaS

さて,ルブラン法では固体のCaSも副生物として生じるのでした.こちらについても触れておきましょう.


CaSは特に目立った用途がなく,せいぜい溝を埋めるか,線路を敷くときの盛土に使うくらいでした.そのため,CaSは空き地にどんどん積まれていきました.


ここにたとえばHClが混じった雨が降ると,とても臭い硫化水素H2Sのガスが発生しました.
 \mathrm{2HCl + CaS \longrightarrow CaCl_2 + H_2S }

夏場は特にひどかったようです.硫黄や多硫化カルシウムCaSxが含まれた水も流出して川などを汚染しました.


また,貴重な硫黄がCaSとして廃棄されていくのも問題でした.


硫黄は用途が幅広い硫酸をつくるのに必要で,イギリスはシチリア島から硫黄を輸入していました.

火山活動が活発なシチリア州ストロンボリ島

1830年代にはシチリアの硫黄をめぐりフランスと「硫黄戦争」ともいえる事態に発展し,硫黄の供給が不安定になっていました.
【参考】黒色火薬の歴史(3):硫黄


そのため,イギリスでは加工の面倒くさい黄鉄鉱FeS2が使われるハメになりました.
 \mathrm{4FeS_2 + 11O_2 \longrightarrow 2Fe_2O_3 + 8SO_2}
 \mathrm{2SO_2 + O_2 + 2H_2O \longrightarrow 2H_2SO_4}



そこで,CaSの利用法がいろいろと検討されました.例えばSchaffnerは塩化マグネシウムをつかって硫黄を回収する方法を提案しました.
 \mathrm{2CaS + MgCl_2 + O_2 \longrightarrow 2CaCl_2 + 2MgO + 2S}

このほか,写真撮影に使われるチオ硫酸ナトリウムNa2S2O3を生産する方法も考案されています.

Claus法により作られた硫黄の山 (Vancouver, カナダ)

工業的スケールでの硫黄回収に成功したのはCarl Friedrich Claus (1827-1900) によるClaus法です.Ludwig Mond (1839-1909) のアイデアをもとに1883年に実用化され,改良されていきました.
 \mathrm{CaS + CO_2 + H_2O \longrightarrow H_2S + CaCO_3}
 \mathrm{2H_2S + 3O_2 \longrightarrow 2SO_2 + 2H_2O}
 \mathrm{2H_2S + SO_2 \longrightarrow 3S + 2H_2O}

この手法により,1890年代にはイギリスは一躍,硫黄の主要生産国となりました.

6.最初のアルカリ監査官

Manchester (1857)

このように法規制により結果としてイノベーションが生まれたわけですが,規制が強すぎると産業を衰退させ,弱すぎると骨抜きになってしまうのでバランスはかなり難しかったはずです.


このセクションでは,そのバランス取りを任されたアルカリ監査官の心のうちをのぞいてみましょう.


最初の主任監査官となったRobert Angus Smith (1817-1884) は,ドイツのギーセン大学で学位を取得していました.その際指導にあたっていたのは,元素分析法の考案でも,また研究実験を通じた化学教育の創始者としても有名なリービッヒ (Justus von Liebig, 1803-1873) でした.


彼は主任監査官となる前,街や下水道といった公害と健康について科学的研究を行っていました.また,マンチェスター・サルフォード衛生協会 (MSSA) のメンバーとして公衆衛生に関する無料の講演会を行い,労働者階級への教育を熱心に行っていました*24


主任監査官となったことで,Smithは全国的な土地所有者と工場経営者の対立の解決を任されることとなります.


彼は、環境保護に非常に熱心な人物でした.彼は「新鮮な空気,清らかな水,緑の丘」を愛し,人間の幸福は周囲の環境と一体であると信じていました.1880年スコットランドの化学工場を訪れた際の報告書には,「こんな(自然の美しい)場所に工場があるのは非常に残念だ.(こういった)場所での化学工場の操業を防ぐ条項でもみつかればよいのだが.」とまで書いています.

Crieff, Scotland. By Crieff and Methven Junction Railway by Richard Webb, CC BY-SA 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=130338189

しかし一方で,Smithは産業に対する理解も十分にありました.彼は工場経営者が従業員のマネジメントや装置の改良・変更にどれだけ苦労しているか理解していましたし,化学産業が街の雇用を担っていることも認識していました.


彼が1876年,イギリス最大の工場の一つがアルカリ法の基準を満たさないことに気づいた時,こんなことを報告書に記載しています.「このような場合,どうすればよいのだろう?何千人もの人々の生活がかかっているような工場を止めようというのか?


環境保護のために文明を捨て,原始時代に戻ることはできません.その一方で,人々の生活が依拠する自然環境は,決してないがしろにしてはいけません.


彼は国家の経済的繁栄,個人の自由,環境の必要性という相反する要求の中で,妥協点をみつけていかなければなりませんでした.


彼は結局,主任監査官という立場を法的制裁という権力を振りかざす執行官としてではなく,公害対策に関する専門知識を提供する教育者として利用することを選びました.


アルカリ法が導入されたとき,工場経営者はよい実験室をもたず,公害対策の方策を自身では検討できない状況でしたし,そういった知識も不足していました.


彼は,「教育」こそが公衆衛生の第一歩だと考えたのです.


Smithは工場経営者たちを信じていました.経営者たちはきっと,「自分と家族のためにきれいな空気を望む賢明な人々」だろうと.Smithにとって,工場経営者に失望することは「人類そのものに失望する」ことと同義でした.Smithは彼らの良心を信じ,「何をすべきかを示せば彼らはそれをおこなってくれるだろう」と考えていました.


Smithはあくまで助言者としての立場を遵守して経営者の士気を低下させないよう交渉にあたり,化学物質による環境汚染防止に関する専門知識の普及に努めました.


Smithはこうしたサポートこそが,監査官の道徳的義務だと考えていました.


結果としてSmithたち監査官は産業界のシンパとみられることもありましたが,彼ら監査官は環境 (green) と経済 (gold) のはざまで自らの信念に従い,専門的な知識の普及という「教育」を通じて,より幸福な未来の実現に尽力していきました.

7.まとめ

ルブラン法の歴史は,現代の化学工業にも通じるところが多々あります.久保田先生が現代の化学工業を「ルブランの末裔」と表現されたのも納得です.


次回はルブラン法に取って代わった*25アンモニアソーダ法をみてみましょう.

参考文献

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"Ask the Histoiran" W.B. Jensen, Oesper Collections (2012).
“Salts, Acids & Alkalis in the 19th Century. A Comparison between Advances in France, England & Germany” D. Reilly, Isis, 42, 287-296 (1951).
”炭酸ソーダ-波乱の誕生と苦難の成長” 大谷杉郎,化学と教育,47, 173-177 (1999).
『ルブランの末裔』久保田宏,伊藤輪恒男,東海大学出版会 (1978).
『酸,アルカリ及肥料 下巻』庄司務 (1937).
『化学の歴史』W.H.ブロック (2003)
『元素発見の歴史』M.E. Weeks, H.M. Leicester (1989)


目次 - 化学と歴史のネタ帳

*1:塩基の用語を使ったのはNicolas Lemery (1645–1715)が1717年に報告した文章がはじめです.一方で中性塩をはっきりと定義したのは1744年,フランスの化学者ルエル(Guillaume-François Rouelle, 1703-1770)によってでした.

*2:1658年にJohann Rudolf Glauber (1604-1668) が製法を自著に記していました.

*3:硫化鉱からアンチモンを抽出する際に,硫黄と親和性の高い鉄の釘を用いるという手法に着想を得たようです.

*4:ある地域では,自由を脅かす敵をすべて退治する硝石を製造するため,千人を超える老若男女すべての住民が森に出向き,灰を用意したと記録されています.

*5:一方で化学者達の研究モチベーションを刺激したという点では成功したとみても良いでしょう.ルブランも,賞の存在により研究意欲を掻き立てられたうちの1人です.

*6:Turner's yellow, patent yellowなどと呼ばれます.

*7:A.F. Charper (1725-1806)の絵画 "Gate in Cliffs" (1786) など.

*8:それでもまだ溶液は黒かったようで,Black liquorとも呼ばれました.

*9:という以上のDizé側のストーリーにはもちろん反論もあります.とはいえ,真相は闇の中ではありますが,Smith (1979) も指摘しているように一定の説得力があるように感じます.

*10:その後,1794年には硫酸製造が事実上麻痺しました.

*11:革命政府としては対外戦争のためソーダ製造を拡大したかったのですが,経営条件などを巡る交渉で溝が埋まらず,硫酸も手に入らないことから頓挫していました.

*12:請求を巡る裁判が決着したのは1804年のことでした.また,この頃は革命政府の支援や硫酸ナトリウムの価格が低下したこともあり,さまざまなライバルが先に工場経営を進めていました.こうしたビハインドも資金調達に影響したのでしょう.

*13:塩税はアンシャン・レジームの象徴として1790年に廃止されていましたが,1806年にナポレオンによって復活させられました.この頃にはソーダ産業が芽を出し始めており,1808年のスペイン反乱で輸入ソーダの価格が上昇するなどさらなる飛躍のチャンスだったのですが,そこに冷水を浴びせてしまった格好です.ちなみに,塩税導入のかわりに1797年に導入されて依頼不人気だった主要道路の通行料が免除されました.

*14:1807年夏,ソーダ製造業者達は免税を主張し,1809年5月9日にソーダ製造業者に限定した免税が認められた形です.1810年7月11日からは外国産ソーダの輸入も禁止されました.このように,ロビー活動によってソーダ製造業はフランス政府からの保護を勝ち取りました.

*15:Walker-on-TyneのWilliam Losh (1770-1861)という人物だったと言われています.1816年にTyne川流域に工場を建設し,1818年にはC. Tennantも工場を建設しました.

*16:はじめはBarillaに慣れていた石けん業者には受け入れられませんでしたが,無料配布して使ってもらうことで偏見がなくなり,普及していきました.

*17:1845年にSt.Rolloxで固体のNaOHが生産されるようになりました.

*18:本文で紹介した反応式は150℃前後のものですが,360℃以上では以下の反応が進行します. \mathrm{5Na_2SO_3 + 2NaNO_2 +H_2O  \longrightarrow 5Na_2SO_4 +2NaOH +N_2}

*19:この他に,酸化鉄Fe2O3を用いる方法もあります.変換率は95%に達したとも言われています.

*20:その後,1874年,1881年,1892年にさらに改正されました.

*21:代表的な産地であったドイツでは,軟マンガン鉱中のマンガン定量するため過マンガン酸塩滴定が発達しました.

*22:反応のコツは,石灰水をたくさん使うことでした.1837年,Gossageはたくさん使わなかったため失敗しています.

*23:スコットランドのCharles Tennantが製法を発見し,1799年に特許を取得しました.

*24:彼はナイチンゲールに対して消毒剤に関する助言も行っています.

*25:現実にはアンモニアソーダ法が登場後も生き延びていますが,第一次世界大戦勃発により硫酸が軍事目的で必要となり,石炭が不足したことでトドメを刺された形となります.