黒色火薬に必要な硝石と硫黄ですが,硝石や硫黄がとれるところはバラバラに分布しています.
したがって,硫黄は硝石とは全然違う歴史をたどってきました.
今回は黒色火薬での硫黄の役割とともに,中国王朝が築いた「硫黄の道」や硫黄をめぐり西欧諸国が争った「硫黄の時代」についてみていきましょう.
黒色火薬の歴史(1):火薬と花火
黒色火薬の歴史(2):硝石
黒色火薬の歴史(3):硫黄
1.硫黄による着火温度の低下
黒色火薬の特徴は,その着火温度の低さです.
そのカギは,硫黄にあります.
硫黄は119℃で融解し,酸化剤と可燃剤がよく混ざるようになります.
その後,KNO3の融点である334℃に近づくに連れ,着火前の熱分解が段階的に進行します.
まず,硝石KNO3や硫黄が木炭中の有機化合物と反応し,H2やNO2が発生します.
NO2は硝石と硫黄との反応でも生じます.
化学反応式は以下の通りです.
そして生成したNO2とH2Sが反応します.
本反応はH2Sがすべて消費されるまで進行します.
その後,NO2は硫黄とも反応します.
生成したSO2はすぐにKNO3と反応します.
式5, 6は吸熱反応ですが,式7はそれらを上回るとても強い発熱反応です.
そのため,熱分解をさらに加速させ,着火に至ります.
このように,硫黄が入ることによって式7の発熱反応で熱が発生するため,着火温度が低くなります.
2.硫黄の道
さて,このように黒色火薬に欠かせない硫黄ですが,どのように得られていたのでしょうか?
火薬につかわれる硫黄は,火山から噴出するガスに含まれる硫黄が冷却されて固体となった「自然硫黄」が使われていました.*1
そのため,「自然硫黄」の産出する場所は,活火山のある地域となります.中国の周囲では,主な産地はシリア,東南アジア,そして日本などです.
日本では古くから硫黄が採掘されており,早い記述では8世紀の『続日本紀』に信濃国から朝廷へ献上されていたことが知られています.今話題の『平家物語』では,鹿ヶ谷の陰謀で平康頼・藤原成経とともに「油黄島(=硫黄島)」に流された俊寛が,のちに彼を訪ねてきた有王丸に「身ニ力アリシ程ハ,此山ノ峯ニ上リテ流黄(=硫黄)ト云物ヲ取テ」と語るシーンがあります.このやり取りが史実かどうかは別として,11-12世紀ごろ硫黄島で取れた硫黄が佐賀,博多を経て中国へ輸出されていたのはある程度確かなようです.
当時,黒色火薬の製造技術は重要機密として中国に独占されていました.錬丹術から派生した火薬技術は,10世紀以降,五代十国の分裂から宋王朝による再統一の過程で武器への転用が進められ,いわゆる「火器」が発達していきます.この火器の発達に伴って火薬の原料の需要が高まるわけですが,中国の領域内には活火山がほとんどなかったのです.
そこで自然硫黄の調達先として中国の人々が目をつけた地域のひとつが,宋代以前から朝貢や貿易でつながっていて,かつ活火山がたくさんある日本でした.他にも,ペルシアや東南アジアから流入していたようです.火薬・火器技術は中国がほぼ独占していましたから,硫黄が中国本土に向かって一極集中する「硫黄の道」が11世紀ごろに形成されたといわれています.
この状況は北宋・南宋・金まで続いていったようです.一方で,14-16世紀になると,火薬・火器技術が元・明朝から西アジア,東南アジア,ヨーロッパ地域に流出していきます.これにより,一極集中型の「硫黄の道」は複雑化・多核化していきました.
3.硫黄の時代
ヨーロッパではイタリアで硫黄が産出します.このあたりの地域は石膏CaSO4・2H2Oが多く産出する地域であることから,ここから溶出した硫酸イオンSO42-がバクテリアによってH2Sに変換され,酸化されて硫黄になると考えられてきました.
しかしながら,そんなに海底に酸素があるのか?という問題や,そんなに酸素があるならSO42-になってしまうのでは?など,いろんな謎があります.最近でも酸素が必要ないモデルが提唱されるなど,研究が続けられています.
硫黄は古代ギリシャや古代ローマなど,古くから火器に応用されていました.14世紀に黒色火薬がつたわると,イタリアの硫黄は黒色火薬の原料としてどんどん使われるようになります.
黒色火薬は,KNO3:C:S=75:15:10もしくは75:12.5:12.5の組成が最も激しく燃焼すると考えられています.実際にこの組成では,酸素バランスは以下のようにほぼ0になります.
【参考】酸素バランス
14世紀ごろからの組成の記録をみていくと,16世紀にはほぼ酸素バランスがゼロの組成が見つかっていることがわかります.
年 | 詳細 | KNO3 | C | S | 酸素バランス |
---|---|---|---|---|---|
1350 | エーデルヌ | 66.6 | 22.2 | 11.1 | -0.27 |
1560 | ホワイトホルン | 50.0 | 33.3 | 16.6 | -0.61 |
1560 | ブリュッセルの研究 | 75.0 | 15.62 | 9.38 | -0.073 |
1635 | イギリス政府契約書 | 75.0 | 12.5 | 12.5 | 0.026 |
1781 | ワトソン司教 | 75.0 | 15.0 | 10.0 | -0.053 |
しかし早く燃えるのも考えものです.ライフル銃に使用することを考えると,爆発力がありすぎると銃が耐えられないのです.そこで,19世紀には硫黄の配合を抑えることでゆっくり燃焼する褐色火薬が開発されました.
国 | KNO3 | C | S | 酸素バランス |
---|---|---|---|---|
イギリス | 79 | 18 | 3 | -0.15 |
イギリス | 77.4 | 17.6 | 5 | -0.14 |
ドイツ | 78 | 19 | 3 | -0.18 |
ドイツ | 80 | 20 | 0 | -0.21 |
フランス | 78 | 19 | 3 | -0.18 |
さて,それではちょっと時を戻して硫黄の供給変化についてみていきましょう.
18世紀に入るとシチリア島にたくさん硫黄があることに気づきます.シチリアでは,硫黄を含む原料に火をつけて,昇華した硫黄を付着させて採取していました.かなりロスのある方法ですが,原料が大量にあったので用いられていました.一方で,もちろん有害な二酸化硫黄SO2が発生しますので,付近は農業に使用できなかったようです.
シチリアの硫黄は硫酸工場のあるフランスのマルセイユに主に輸出されていました.当時,硫黄は火薬の原料としてだけではなく硫酸にも変換されて使用されていました.*2
マルセイユへの輸出は,一時ナポレオン戦争(1803-1815)で中断されますが,それが落ち着くと輸出が再開されます.その頃には硫酸を活用して炭酸ナトリウムを製造するルブラン法が採用されはじめていました.*3
この頃,産業革命期にあったイギリスでもルブラン法の工場ができはじめ,硫黄の需要が高まっていました.塩税が1823-1825年に減税,廃止されると,シチリアの硫黄がイギリスにもどんどん流入するようになりました.
【参考】アルカリの歴史(2):ルブラン法
1830年代にはイギリスとフランスの間でシチリアの硫黄を巡って奪い合いが発生し,一触即発の「硫黄戦争」ともいう事態が発生しました*4.シチリア島を有する両シチリア王国政府の愚策*5もあり硫黄の供給が大変不安定になりました.
結果として,イギリスでは加工の面倒くさい黄鉄鉱FeS2が使われるハメになりました.
ヨーロッパへの硫酸製造用の硫黄輸出は低調になりますが,アメリカが使ってくれたり,ゴムの加硫に使われたり,亜硫酸H2SO3が亜硫酸パルプや保存料に使われたりなど,新たな市場を開拓していきます.
一方,ヨーロッパで硫黄に取って代わった黄鉄鉱産業は順調というわけではなく,1880年代にクラウス法が登場すると,ルブラン法で廃棄されていた硫化カルシウムCaSから硫黄が生成されるようになり打撃を受けます.
この手法により,1890年代にはイギリスは一躍,硫黄の主要生産国となりました.
イギリスとイタリアが結ぶことで一時はアメリカ向けの硫黄の供給バランスが保たれますが*6,1900年代中盤に一気に崩壊します.アメリカでのフラッシュ法の登場です.
ヘルマン・フラッシュ(1851-1914)は,アメリカで1880年代から1890年代にかけて石油からアルカリ,塩などの産業で様々なベンチャー企業を立ち上げていた起業家でした.彼は石油や塩事業の経験から,穴をほり,地下から資源を回収することに慣れていました.1890年,もしかして同じような方法で地下の硫黄も取れるのではないか?と考え,まず特許を取得し,そしてルイジアナ州カルカシューに向かいます.
フラッシュ法では,硫黄の融点が119℃と低いことを活用して,高温高圧の熱水を地下深くの硫黄鉱床に送り込み,溶けた硫黄が地表に出てきたところを回収します.
はじめは失敗続きであまり硫黄は取れず,熱水をつくるコストばかりが膨らんでしまいました.そんな中,1901年,わずか60マイル離れたテキサス州ボーモントで石油が出たのです.これにより熱水のコストが一気に下がり,1903年には一気に硫黄が産出,1904年には世界第2位の硫黄産出規模となり,1905年にはなんとシチリアを追い抜いたのです.
このように,フラッシュ法によりシチリアの硫黄よりも安い硫黄を生産できるようになったことで,アメリカは一躍,世界有数の硫黄生産国になりました.一方でシチリアの硫黄産業は大打撃をうけ,大量の失業者が出てしまいました.この後,シチリアは世界大戦や大恐慌に振り回されながら,やがて衰退していきました.フラッシュ法による硫黄の生産は第二次世界大戦の終戦まで,ずっと主流で有り続けました.
硫黄は戦後,1950年代にカナダで石油から硫黄を抽出する手法が確立され,その後1970年代にはフラッシュ法に取って代わるようになります.この手法は現在でも使われています.
4.おわりに
シチリア島北部に浮かぶエオリア諸島は活火山が多く,2000年には世界自然遺産にも登録されています.
なかでもヴルカーノ島は硫黄の匂いが立ち込める不思議な島で,泥温泉が人気だそうです.
シチリアの硫黄は工業資源としての役割はほぼ終えていますが,現在でも観光資源として活躍中のようです.
問題
Q. ルブラン法では副産物として塩化水素ガスが発生し,重大な環境汚染を引き起こした.1874年にはディーコン法の登場によりMnO2を触媒として塩化水素を酸素と反応させ,紙などの漂白に有用な物質を得られるようになった.この化学反応式を示せ.
A.
ルブラン法の問題点はこれにより解決はされましたが,炭酸ナトリウムの製法としては既にその座を1867年に実用化されたソルベー法に奪われていたのでした.
参考文献
『中国火薬史』岡田 登 著,汲古書院(2006).
『世界を変えた火薬の歴史』クライヴ・ポンティング 著,原書房(2013).
『花火の事典』新井 充 著,東京堂出版(2016).
『火薬と爆薬の化学』テニー・デービス 著,東海大学出版会(2006).
“FIREWORKS Principles and Practice” Lancaster, R. (1998).
"Chemistry of Pyrotechnics: Basic Principles and Theory" Mocella, C., Conkling, J.A. (2019).
"The Chemistry of Powder and Explosives" Davis, T.L. (1943).
"Chemistry of Fireworks" Russell, M.S. (2009).
"Sulfur History, Technology, Applications & Industry" Gerald Kutney (2013).
Labrado, A.L., et al. "Formation of Large Native Sulfur Deposits Does Not Require Molecular Oxygen" Frontiers in Microbiology, 10, 24 (2019).
*1:自然硫黄は無臭ですが,近くに腐卵臭のする硫化水素ガスや刺激臭のする二酸化硫黄ガスがあるため,自然硫黄の産出する場所は結構臭くなります.
*2:硫酸は金属の精製に必要な硝酸などを得るために使われたりしていました.
*3:炭酸ナトリウムは石鹸などをつくるのに役立ちました.この頃マルセイユでは石鹸製造が盛んになります.
*4:実際には戦闘はおきませんでした.
*5:フランス商人Aime Taixが立ち上げた会社TACをかなり優遇する政策で,実質的にイギリス商人を締め出すものでした.
*6:Anglo-Sicilian Sulphur Company (1896-1906).前半5年はうまくいったようですが,後半5年でフラッシュ法の登場により一気に状況が悪化し,更新はありませんでした.