化学と歴史のネタ帳

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黒色火薬の歴史(2):硝石

黒色火薬には木炭粉,硝石,硫黄が必要です.


このうち,木炭はどこでも手に入れられますが,硝石KNO3や硫黄はそうかんたんにはいきません.そこで「硝石や硫黄をどのように確保するか?」が歴史的に大きな課題となってきました.


戦争で,そして農業で必要となる硝石をいかにして確保してきたのか?

今回は硝石をめぐる,人類の努力の歴史をみていきましょう.




黒色火薬の歴史(1):火薬と花火
黒色火薬の歴史(2):硝石
黒色火薬の歴史(3):硫黄

1.硝石の性質

硝石KNO3黒色火薬では酸化剤としてはたらき,熱分解して酸素を放出します.
 \mathrm{4KNO_3 \longrightarrow 2K_2O+ 2N_2 + 5O_2}

熱分解に必要な熱は315.9 kJ/mol と高いですが,質量あたりの39.6%と酸素量が多いこと,融点が低く(334℃)着火しやすいことから火薬の原料として古くから使われてきました.


また,火薬の原料として特に重要な性質は,その吸湿性の低さです.


他の硝酸塩であるNaNO3Ca(NO3)2などは,吸湿性が非常に高いことが知られています.火薬が水を吸ってしまうと,もちろん火がつきにくくなるという問題もでてきます.


また,AlやMgなどの金属粉末が使われている場合,水との反応により熱を発生します.
 \mathrm{Mg + 2H_2O \longrightarrow Mg(OH)_2 + H_2 }

そうすると,発生した熱がどんどん蓄積され,最終的に自然発火や爆発に至る危険性があります.


したがって,火薬の原料に使われる物質には,基本的に吸湿性の低いものが選ばれます.そういった意味では,自然に産出するKNO3は,酸化剤として非常に優秀であったといえます.

2.硝石の製造

天然の硝石KNO3は,土壌中に存在する細菌によって作り出されています.まずアンモニア酸化細菌が動物の死体や排泄物から発生したNH3からNO2-を生成し,
 \mathrm{2NH_3 + 3O_2 \longrightarrow 2H_2O + H^{+} + NO_2^{-}}

亜硝酸酸化細菌がNO2-を酸化してNO3-を生成します.
 \mathrm{2NO_2^{-} + O_2 \longrightarrow 2NO_3^{-}}

その後,土中のカリウムと結合することでKNO3になります.


多く産出する地方は規則的な乾季が訪れるインド,北アフリカなどに限られます.これらの地域では,雨季に細菌の働きで硝石ができ,乾季になると硝石の溶液が地表に上昇し,水分を失って結晶として析出します.


中国ではあまり硝石はとれなかったため,壁や地面から硝石を集めていました.硝石は温度によって水への溶解度が大きく変わりますので再結晶を活用した「古土法」で大雑把に精製することができます.壁や地面から集めた硝石を水にとかし,熱して濃縮し,冷まして結晶を得るといった具合です.


しかしこの方法では,同じく土中に存在するCa(NO3)2やMg(NO3)2を分離することができません.これらの硝酸化合物は吸湿性が非常に高く,火薬に用いるのには大変不向きでした.また,一回とってしまうと50-60年は同じ場所からとることができません.*1


ヨーロッパも硝石はほとんど取れませんでした.そのため,わずかながら家畜小屋や納屋の壁や土から微量な硝石を掘り起こすしかありませんでした.


しかしながら,これらは同時に農民にとって肥料の重要な供給源でした.そのため,農民は保証もなしに火薬目的で徴収されて大変憤慨していました.そこで人工硝石の製造法を確立する必要がありました.


1378年になると,ニュルンベルクで最初の作硝丘が操業をはじめます.ここでは生石灰,わら,土が交互に重なった丘をつくり,3週間毎日動物や人の尿をまきます.特にワインや強いビールを飲んだ人の尿は珍重されたようです.


その後,土を大おけに入れて数時間沸騰させて濃縮し,これを冷まして結晶化させます.火薬に使えるほど硝石を得るには,3回以上水に溶かして再結晶していたようです.この作業は悪臭がたいへんひどかったようです*2


このような牧畜型培養法では,生石灰の主成分であるCaOのせいで不純物であるCa(NO3)2が大量に混じってしまい,吸湿性が非常に問題となります.
 \mathrm{CaO +2HNO_3 \longrightarrow Ca(NO_3)_2 }

16世紀頃の作硝丘(ドイツ).Public domain image.

そこで,1280年頃イスラムで開発された木灰を用いる方法が途中から取り入れられます.木灰は主成分がK2CO3で,不純物のCa(NO3)2と反応することでKNO3が生成されます.*3
 \mathrm{Ca(NO_3)_2 + K_2 CO_3 \longrightarrow 2KNO_3 + CaCO_3}

これにより多少はましになったかもしれませんが,まだまだ効率は大変悪く,しばらくは硝石を農民の土地から勝手に徴収する硝石採取委員が幅を効かせていました.


一方,インドは非常に温暖な気候で,天然の硝石が土壌中に大量に含まれていました.

イギリス東インド会社

1600年頃,インドのベンガル地方に硝石KNO3の一大産地を発見すると,1626 年からイギリス東インド会社インド硝石を大量に輸入するようになります.一時はヨーロッパに送られるインド硝石は年間3000トンにも達していたようです.


この恩恵にあずかったのは,比較的初期からインド開発に参加したオランダイギリスです.スペイン継承戦争(1701-1714)以降の好戦的な時代において,イギリスが火薬製造で有利な状態は続きました.


一方でインド開発に出遅れたフランスドイツは依然として人工硝石に依存する必要がありました*4


フランスでは石造りの建物や厩舎の壁などに自然に生じた塩っぽいものを必死にかき集め,これを精製して硝石を製造しました.1669年から1775年の期間では年間70万-180万kg生産されていたようです.


七年戦争 (1754-1763) で貴重なフランス領インドを失ってからは,特に自給自足にこだわるようになりました.1775年には政府が硝石製造・改良について科学アカデミーへ要請し,アカデミーはこれを受けて研究論文のを設けました.


硝石の正体は長らく謎で,野菜や鉱物から生成されるもの,あるいは生物だとする説もありました.硝石製造法として伝わる灰を加えるステップも理由はよくわかっていなかったようです.


やがて硝石は硝酸と塩基からなる塩の一種であり,灰を加えると溶解度の違いによりKNO3を取り出せるというところまで突き止めることができました.


硝石製造の仕組みがわかったことでフランスでは硝石産業が盛んになりました.


特にフランス革命勃発(1789年) の後は革命の中心となったサン・キュロットたちが硝石の採集を頑張り,共和国政府によりすべての森林を燃やし尽くして製造に必要なに変換することが呼びかけられました.

サンジェルマン・デ・プレの修道院(17世紀)By Gérald Garitan - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12746834

そうして全土から集められた原料がサンジェルマン・デ・プレの旧修道院につくられた巨大な硝石工場で精製され,パリ近郊の工場で火薬に変換されました.


その結果,「フランスの第二次作戦のための火薬が不足しているという噂をサン・キュロットが無効化した」とまで言わしめました.


このようにフランスでは硝石製造についての化学的理解が進み,これと並行して原料の純度を評価する滴定法など,現在の化学でもおなじみの分析手法が発達しました.

3. チリ硝石産業の興隆と衰退

19 世紀に入ると状況は大きく変わります.

ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群(チリ).Pablo Trincado氏が撮影. rewbs.soal (CC-BY-2.0), https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4085423

この頃,イギリスでは第二次農業革命が進行していました.高まる窒素肥料の需要に対して南米のペルーからは天然肥料であるグアノ(鳥の糞)*5が大量に輸出され,ペルーは経済的に大きく繁栄していました.


しかしながら,グアノは有限です.そこでペルー政府が目をつけたのが,南部に産出していたチリ硝石NaNO3です.


チリ硝石NaNO3はインド硝石KNO3よりも安価でしたが吸湿性が非常に高く,そのままでは火薬の原料としては到底使用できないものでした.


ところが19世紀に入るとKClを用いてチリ硝石からKNO3を合成する手法が開発されました.1861年にはドイツのStassfurtでKClの大鉱床が開発されました.
 \mathrm{NaNO_3 + KCl \longrightarrow KNO_3 +NaCl}


この手法ではNaClも一緒に生じますが.食塩は温度をあげても水に対する溶解度が変わらないのに対しKNO3大きく変わるので,再結晶法で容易に分離することが可能です.


やがて安価なチリ硝石NaNO3は高価なインド硝石KNO3に取って代わるようになり,ヨーロッパにひろがる覇権主義の結果,ドイツなども含め肥料としてだけではなく火薬としてもどんどん使用されるようになりました.


また,南北戦争 (1861-1865) 中のアメリカでも,北軍の封鎖によりがインド硝石の供給が断たれていました.そこで南軍ではチリ硝石が直接火薬として使われました.


結果として,ペルー,ボリビア,そしてチリをはじめとした南米諸国は天然硝石市場を支配していきました*6


一方ドイツでは,リービッヒが植物生理化学の研究を行い,『化学の農業及び生理学への応用』(1840年)により,植物の生育には植物の栄養源には炭酸ガスアンモニア,水,リン酸,硫酸,ケイ酸,カルシウム,マグネシウムカリウムなどが必要であると主張しました.


1843年以降,John Bennet Lawes (1841-1900)やJohn Henry Gilbert (1817-1900) がどんな物質が適切かを実際に小麦を育てて調べたところ,アンモニアを加えたほうが生育がよくなることを示し,窒素肥料の有効性を明らかにしました.


こうした一連の研究が,化学工業的な肥料生産研究のきっかけとなりました.

Fritz Haber (1868-1934, 左)とCarl Bosch (1874-1940, 右)

1898年,イギリスのウィリアム・クルックスが「このままでは増加する人口を養うに必要な小麦を供給できなくなる」と警告し,空中窒素を利用する方法の開発を呼びかけます.


そして1913年には空中窒素を活用してアンモニアを合成する方法が確立しました.これが「ハーバー・ボッシュ法」です.
【参考】アルカリの歴史(8):ハーバー・ボッシュ法

 \mathrm{N_2 + 3H_2 \longrightarrow 2NH_3 }


また,ちょっと前にはアンモニアから硝酸を合成するオストワルト法(1902年特許出願)が開発されています.
 \mathrm{NH_3 + 2O_2 \longrightarrow HNO_3 + H_2O }

より安価な触媒も発見され,チリ硝石を人工的に合成することが可能になりました.


結果として,硝石産業に過度に依存したチリの衰退と一因となりました*7.一方でドイツは窒素源を確保することで飢餓の克服とダイナマイトをはじめとした火薬の自給が可能となり,第一次世界大戦の継続を可能にしました.*8

4.おわりに

チリ北部のアタカマ砂漠には,かつて200ほどあったチリ硝石工場群の跡地があります.2005年には「ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群」として世界遺産に登録されています.


もし訪れた際には,ぜひ硝石の歴史を思い出してみてください.


次回は硫黄の歴史について見てみましょう.

問題

Q. 培養法で得られたCa(NO3)2を含む硝石の溶液について,木灰を加えることでKNO3を精製できるのはなぜか?



A. 硝酸カルシウムと木灰の化学反応式は,以下のように書ける.
 \mathrm{Ca(NO_3)_2 + K_2 CO_3 \longrightarrow 2KNO_3 + CaCO_3}

このうち,Ca(NO3)2,K2CO3,KNO3は水に溶けるが,CaCO3は水に溶けず沈殿するため,炭酸カルシウムが沈殿する反応が進行する.KNO3は温度上昇にしたがい水への溶解度が大きく増加するので,煮沸濃縮した溶液を冷却することで,KNO3の結晶を得ることができる.

参考文献

『中国火薬史』岡田 登 著,汲古書院(2006).
『世界を変えた火薬の歴史』クライヴ・ポンティング 著,原書房(2013)
『花火の事典』新井 充 著,東京堂出版(2016).
『花火学入門』吉田 忠雄,丁 大玉 著,プレアデス出版(2006).
『花火の科学』細谷 政夫,細谷 文夫 著,東海出版(1999).
『花火の科学と技術』丁 大玉,吉田 忠雄 著,プレアデス出版 (2013).
『エネルギー400年史』リチャード・ローズ,草思社 (2019).
板垣 英治『硝石の舎蜜学と技術史』Annual report of the Center for Archaeological Research, The University of Kanazawa, 8, 19-58, (2006).
田口 賢士,西村 ミチコ『チリ硝石産業と硝石輸送の時代背景〔1〕 : 産業革命と農業革命』47, 59-66 (2000).
田口 賢士,西村 ミチコ『チリ硝石産業と硝石輸送の時代背景[3] : 火薬と人工硝石』らん:纜,53, 34-40, (2001).
高橋 英一『歴史の中の肥料 [3] アンモニア合成への道(1)』農業と科学(2005).
『リービヒ「化学の農業及び生理学への応用」再読』吉田武彦,肥料科学, 25, 61-97 (2005).
FIREWORKS Principles and Practice” Lancaster, R. (1998).
"Chemistry of Pyrotechnics: Basic Principles and Theory" Mocella, C., Conkling, J.A. (2019).
"Chemistry of Fireworks" Russell, M.S. (2009).
“The origins and early development of the heavy chemical industry in France” J.G. Smith, (1979).
“The French Crash Program for Saltpeter Production, 1776-94” R.P. Multhauf, Technology and Culture, 12, 163-181 (1971).
"ULLMANN'S Encyclopedia of Industrial Chemistry" Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA (2002).


目次 - 化学と歴史のネタ帳

*1:この古土法は秀吉の朝鮮出兵後に明軍の火薬技術者から伝わっています.1633年に徳川家光鎖国令を発すると,硝石は国産せざるを得ず,古土法が主流となってきます.天明の大飢饉では,床下の土を売って飢えをしのぐ庶民の暮らし向きが伝わっています.

*2:Dr. STONEでスイカがやっていた方方法に近いかもしれません.

*3:日本でも江戸時代後期にオランダからこの方法が伝わります.また,これ以外にも日本独自ともいうべき農耕型培養法が1570年頃から加賀藩で実施されています.

*4:このほか,スウェーデンも硝石製造で有名で技術的な革新がありました.

*5:紀元前500年前後から糞の堆積がはじまったといわれており,1853年時点で44.7 m近く堆積していたようです.この地域ではインカ帝国のころから肥料として使われていました.プロシアの探検家アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt, 1769-1859) が1802年がヨーロッパに持ち帰ったのち,ハンフリー・デービー(Humphry Davy, 1778-1829) をはじめとした化学者が調べましたが,安全に使える肥料かどうかは判断がつきませんでした. 1840年にはスイスの医師Johann Jakob von Tschudi (1818-1889) が古代チリの研究のついでに訪れた際,より詳細な調査が行われました.こうした分析・調査結果が一般に知られるようになったことで,イギリスでのグアノ販売が1840年代には始まりました.不幸なことに,グアノが輸入される際にペルー産のジャガイモが葉枯病に感染しており,1840-1860年代にジャガイモ飢饉を引き起こしました.

*6:1873年以後の世界恐慌を背景としてチリがペルー,ボリビアを相手に太平洋戦争(1879-1883)を強行した結果,チリは硝石産地を併呑します.これにより,硝石産業はチリの基軸産業となりました.

*7:もちろん,第一次世界大戦による輸出の混乱も要因の一つでした.

*8:ドイツは第一次世界大戦中,海上封鎖によりチリ硝石が手に入らなくなっても硝石を自給できてしまいました.