化学と歴史のネタ帳

身近にひそむ化学と歴史を,高校までの知識をベースに解説する化学史系ブログです.

アルカリの歴史(7):アンモニアと石灰窒素

刺激臭でお馴染みのアンモニアは,よくおしっこの臭いにも例えられますね.一方で,石灰窒素はあまり聞き馴染みがないと思います.


アンモニアはどのように発見されたのでしょう?石灰窒素とはなんでしょうか?

石灰窒素工場 (1919, アメリカ)

今回はアンモニアの発見や,肥料との関わり,そしてその合成法として登場した石灰窒素法をみてみましょう.



アルカリの歴史(1):炭酸ナトリウム
アルカリの歴史(2):ルブラン法
アルカリの歴史(3):アンモニアソーダ法
アルカリの歴史(4):カリウム塩
アルカリの歴史(5):電気分解
アルカリの歴史(6):塩化アンモニウム
アルカリの歴史(7):アンモニアと石灰窒素
アルカリの歴史(8):ハーバー・ボッシュ法
アルカリの歴史(9):戦争とアンモニア

1.アンモニアの発見

いつ誰がアンモニアを発見したのか?という問いに答えるのは非常に難しいです.ひとつには,かなり昔から刺激臭のあるガスとして知られていたからです.


その作り方は,錬金術の文脈で古くから知られていました.
【参考】アルカリの歴史(6):塩化アンモニウム


17-18世紀になると,塩類の研究からアンモニアが注目されました.1700年には植物学者のトゥルヌフォール(Joseph Tournefort, 1656-1708)*1sal volatileとして知られていた炭酸アンモニウム(NH4)CO3石灰を加えると"volatile alkali (揮発性のアルカリ)",つまりアンモニアNH3が発生することを示しました.
 \mathrm{(NH_4)_2CO_3 + CaO \longrightarrow 2NH_3 + CaCO_3 + H_2O}

この頃はまだ揮発したものがsal volatile や,それとよく混同されていたsal ammoniacと呼ばれたNH4Clと同一視されていました.


独立した物質としてのアンモニアの"発見"は,気体をそれぞれ分離し,その性質を調べるようになった空気化学の文脈で捉えたほうが見通しがよいでしょう.


空気化学の代表的な化学者であり,水上置換法を開発したことでも知られるヘールズ(Stephen Hales, 1677-1761)は1727年,NH4Clと石灰を加熱して反応させると,ガラス容器内に水が逆に吸い込まれることを報告しました*2
 \mathrm{2NH_4Cl + CaO \longrightarrow 2NH_3 + CaCl_2 + H_2O}

彼は反応により生じた物質が容器内の空気を吸収したために,水が逆流したのだと考えたようです.しかし実際には,発生したNH3水に吸収されたのでした.


似た原理の逆流現象については,現在もアンモニアの噴水実験として知られています.
www.youtube.com


後年,ブラック(Joseph Black, 1728-1799)は酸化マグネシウムでも同様の現象を引き起こすことを示しました.しかし単離までは至らなかったようです.
 \mathrm{2NH_4Cl + MgO \longrightarrow 2NH_3 + MgCl_2 + H_2O}



実際にアンモニアを単離することができたのはプリーストリー(Joseph Priestley, 1733-1804)です.1773年,彼は水上置換法で水の上で気体を集める代わりに,アンモニアの溶けない水銀の上で集める方法に変更しました.これによりアンモニア単離することができたのです.


プリーストリーは単離した気体を"alkaline air (アルカリの空気)"と名づけ,1774年に王立協会で発表しました.彼はさらに,この気体が塩酸ガスHClと反応してNH4Clを生成することを示しました.


一般的には,ブラックか,またはプリーストリーをアンモニアの発見者とすることが多いようです.ただし,ここまでみてきたように「発見」をどのタイミングにするか?はなかなか議論の分かれるところだとは思いますので,点ではなく流れとして捉える方が良いように思えます.


さて,この時代までは化合物に「揮発性のアルカリ」や「アルカリの空気」といったフレーズで名前をつけることはそこまでおかしなことはありませんでした.

Louis-Bernard Guyton de Morveau (1736-1816)

しかしフランスの化学者ド・モルボー (Louis-Bernard Guyton de Morveau, 1736-1816) はこうした名前の付け方をよく思っていませんでした.


ド・モルボーは1782年に「フレーズではなく,できる限り構成要素に応じて唯一の名前をつけるべきだ」と主張しました.例えば,今ではNa2SO4は構成要素として硫酸とナトリウムを含むため「硫酸ナトリウム」と名前をつけますね.


ド・モルボーはまた,できる限り一語で名前をつけたいという思いがあったようです.そしてNH3についても一語で呼べるように"ammoniac"という名前をつけました.同年,スウェーデンベリマン(Torbern Olof Bergman, 1735-1784)もまた,"ammoniacum"と一語で呼ぶようになりました.


ベリマンは"sal ammoniac"と呼ばれていたNH4Clについても"Muriaticum ammoniacum"と命名を変更しました.彼によれば塩酸HClmuriaticumでしたので,今でいう「塩化アンモニウム」にだいぶ近い命名といえます.


こうして化合物の命名方法は徐々に変化しました.NH3についても1790年代には"ammonia pura"と呼ばれていましたが,やがて単に"ammonia (アンモニア)"という名称が定着しました*3

2.窒素と肥料

Justus Freiherr von Liebig (1803-1873)

1840年,元素分析法を開発したドイツのリービッヒ(Justus Freiherr von Liebig, 1803-1873) は『化学の農業及び生理学への応用』において,植物の栄養源には炭酸ガスアンモニア,水,リン酸,硫酸,ケイ酸,カルシウム,マグネシウムカリウムなどが必要であり,こうした栄養素は土壌に還元して循環させなければならないと主張しました.
【参考】黒色火薬の歴史(2):硝石


窒素化合物(アンモニアについては,後の研究により雨水中や土壌に含まれることが発覚し,リービッヒは窒素はあえて土壌に加える必要はないかもしれないと考えるようになりました.


しかしながら1843年以降,John Bennet Lawes (1841-1900)やJohn Henry Gilbert (1817-1900) が肥料としてどんな物質が適切かを実際に小麦を育てて調べたところ,アンモニアを加えたほうが生育がよくなることを示してみせました.窒素をめぐる論争を経てリービッヒも1856年には考えを改め,窒素肥料の有効性を認めました.


こうした一連の流れは,化学工業的な肥料生産研究のきっかけとなりました.

ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群(チリ).Pablo Trincado氏が撮影. rewbs.soal (CC-BY-2.0), https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4085423

イギリスに始まった産業革命は19世紀にはヨーロッパ大陸に広がり,その結果人口がどんどん増えていきました.1850年代半ばからはグアノ(鳥の排泄物)1880年代からはチリ硝石NaNO3が南米から輸入され窒素肥料として使われましたが,その枯渇が心配されていました.


1860年代以降は石炭を乾留する際に発生するアンモニアを回収し,これを硫酸に吸収させて合成した硫酸アンモニウム(NH4)2SO4も窒素肥料として使われました*4.しかしながら,この方法では増産が困難でした.
【参考】炎(11):ガス灯の普及
 \mathrm{2NH_3 + H_2SO_4 \longrightarrow (NH_4)_2SO_4}

William Crookes (1832-1919)

海外産の窒素肥料取引の重要な拠点であるブリストルにおいて,1898年9月,英国科学振興協会会長に就任したクルックス(William Crookes, 1832-1919)は,会場に集った代表者たちの前で「このままでは増加する人口を養うに必要な小麦を供給できなくなる」と警告しました.


そして,小麦は「アンモニアや硝酸といった形で固定された窒素を最も必要とする」として,空気中にはほぼ無尽蔵に存在する窒素を利用する方法の開発を呼びかけました.


クルックスの演説は「小麦問題」としてヨーロッパ各国で報道され*5,工業的な窒素固定の研究が急速に進展しました.

3.石灰窒素法

クルックスの演説をきっかけに窒素を別の窒素化合物に変換する反応の研究が加速しましたが*6,ここでは特にアンモニアに変換する方法を見ていきましょう.


ハーバーボッシュ法以前,窒素肥料の製造法として重要な役割を担ったのが1900年代に確立した石灰窒素法です.


1890年代初頭,フランスのアンリ・モアッサン (Ferdinand Frédéric Henri Moissan, 1852-1907) やアメリカの技術者トーマス・ウィルソン (Thomas Leopold Willson, 1860-1915)は,炭酸カルシウムCaCO3(もしくは生石灰CaO) と炭素を電気炉内で加熱すると,炭化カルシウムCaC2,いわゆるカーバイドが得られることを発見しました.
【参考】炎(15):アセチレン炎の利用
 \mathrm{CaCO_3 \longrightarrow CaO + CO_2 }
 \mathrm{CaO + 3C \longrightarrow CaC_2 + CO }

合成当初カーバイドの利用法はあまりありませんでしたが,ウィルソンはアセチレン灯として照明に使うのをPRしたのでした.


ドイツのアドルフ・フランク (Adolph Frank, 1834-1916) はカーバイドの有用性に目をつけ,反応を調べてみようと思い立ちました.フランクは以前紹介した,ドイツカリウム塩産業の立役者です.
【参考】アルカリの歴史(4):カリウム塩

Adolph Frank (1834-1916)

このころフランクは当時60歳くらいになっていました.新分野を開拓するには,できれば若い助手の助けが必要でした.

Nikoden Caro (1871-1935)

そこでフランクは1895年頃から,化学コンサルタント的な仕事をしていた若手のカロー(Nikodem Caro, 1871-1935) とともにCaC2の利用方法を検討しはじめました.


当時注目を集めていた化合物に,NaCNなどのシアン化塩があります.1890年代には南アフリカでシアン化塩を用いた金の抽出技術が工業化されており,非常に有用な化合物だったのです.
 \mathrm{ 4Au + 8NaCN + O_2 + 2H_2O \longrightarrow 4Na [Au(CN)_2 ] + 4NaOH }
 \mathrm{ 2Na [Au(CN)_2 ] +Zn \longrightarrow Na_2 [Zn(CN)_4 ] + 2Au}

そこで彼らはカーバイドからシアン化塩を作ろうと考えていたようです.


1898年頃,フランクとカローは約1100℃で窒素ガスと反応させ,これを冷却することで,石灰窒素(カルシウムシアナミド)CaCN2を回収する方法を開発しました.
 \mathrm{CaC_2 + N_2 \longrightarrow CaCN_2 + C}


さらにカローは1900年,CaCN2を熱した水蒸気で処理するとアンモニアが発生することを発見し,特許を取得しました.
 \mathrm{CaCN_2 + 3H_2O \longrightarrow CaCO_3 + 2NH_3}

アンモニアに変換することができれば,肥料として活用する道も拓けます.


実はCaCN2アンモニアまで人工的に変換しなくても,土壌中で自然に分解して尿素,そして炭酸アンモニア(NH4)2CO3へと変換されます.1901年,CaCN2はそのまま窒素肥料として使用できることが確かめられました.


最初の工場は1905年,イタリアのPiano d'Ortaで稼働しはじめました.彼らが確立した合成ルートは大量の電力を必要としましたが,イタリアは石炭埋蔵量が少ないため水力発電産業を発展させており,加熱に必要な電力を調達することが可能だったのです.


こうしてカーバイドの利用法を検討するうちに合成された石灰窒素は,迫り来る食糧難を救う肥料として普及しはじめました.

4.日本での石灰窒素製造

1890年代のカーバイド製造に関する話は日本にも届いており,各地でカーバイドの研究が行われました.福島県郡山もその一つです.

安積疏水の沼上発電所 By BehBeh - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=107890725

福島県郡山の安積疏水は日本三大疎水の一つで,明治12年から始まった日本初,国直轄の農業水利事業です.1899年,約40 mの落差がある箇所には水力発電所が設置され,製糸業やその後の化学工業を支えました.

野口遵 (1873-1944)

郡山絹糸紡績会社の野口遵 (1873-1944) は,その水力発電所の建設に携わっていました.野口は田中商店が水力発電の余剰電力をもとに進めようとしていたカーバイド製造の工場設計にも携わりました.


野口はその後,宮城県三居沢のカーバイド製造所設立 (1902年) にも関わりました.このとき,野口の大学時代の後輩である藤山常一 (1871-1936) カーバイド研究・製造の中心となりました.照明用アセチレンガスの需要に支えられ,ビジネスは成功を収めました.


この頃,フランク・カロー式による石灰窒素の合成法とその利用に関するニュースが日本にも入ってきていました.原料が安い石灰石と石炭であることは魅力的でした.野口は東北で展開したカーバイドビジネスをひと段落させ,石灰窒素製造に取り組むことにしました.

旧曽木発電所遺構

野口は1904年頃から,「東洋のナイアガラ」とも呼ばれる鹿児島県の曽木の滝水力発電所を設立*7する計画に参加し,余剰電力を活用して熊本県水俣 *8カーバイドを製造するプランに着手しました.


そして1908年には水力発電カーバイド製造の会社を合併させて日本窒素肥料株式会社を設立しました.これがのちのチッソです.


はじめ,日本窒素肥料では藤山が石灰窒素合成の責任者となりました.藤山はイタリアのフランク・カロー式合成法を学んでいましたが,加熱して合成し,冷却して回収するという方法が非常に非効率に感じていたようです.


そこで藤山は炉の上から原料を入れ,下から冷めた石灰窒素を取り出す連続式製造法を考案しました.


石灰窒素法では純度の高い窒素が必要です.藤山は空気を熱したに通して酸素を分離し,窒素を回収する方法をとっていました.
 \mathrm{2Cu + O_2 \longrightarrow 2CuO}

これを続けると,銅がこれ以上酸化されない状態まで到達します.


そこで酸化銅CuOを還元するためにCOを含む発生炉ガスを使うことにしました.COを吹きかけることでCuOをCuに還元すれば,再び窒素の回収に使えるという算段です.
 \mathrm{CuO + CO \longrightarrow Cu + CO_2}


しかしここに落とし穴がありました.COは単体では700℃くらいまで耐えることができますが,銅や鉄が存在するとこれが触媒となり,250℃くらいの低温でも分解してしまったのです.
 \mathrm{2CO \longrightarrow CO_2 + C}


結果として,COを用いてCuOを還元しようとするとCuが得られる前にCOが分解して炭酸ガスCO2となり,これが混じって窒素の純度を落としてしまいました


藤山は1911年1月の試運転から10月くらいまで頑張りましたが,どうしようもできませんでした.そこでピンチヒッターとして12月から問題解決にあたったのが野口でした.


そこで後を引き継いだ野口は1200℃まで加熱しても分解しない揮発油還元剤として使うことにしました.その結果,窒素の純度は99%に向上しました.


そのほか,電極カーボンによる加熱方法を変更して均一に加熱できるようにし,耐火レンガをアルカリ性に強いものに変えることで合成炉を改良し,わずか1ヶ月ほどで藤山が直面した問題を解決しました


こうして1912年2月には石灰窒素製造の工業化を達成することができました.得られた石灰窒素は硫酸アンモニウム(NH4)SO4に変換されて窒素肥料として使われました.
 \mathrm{CaCN_2 + 3H_2O \longrightarrow CaCO_3 + 2NH_3}
 \mathrm{2NH_3 + H_2SO_4 \longrightarrow (NH_4)_2SO_4}

5.まとめ

石灰窒素法は技術的にも比較的簡単で設備投資が安いのが特徴で,急速に普及していきました.しかし原料となるカーバイドの製造には多くの電力を必要としたため,増産には限界がありました.


次回は石灰窒素法に変わる合成法として登場した,ハーバーボッシュ法の歴史をみてみましょう.

参考文献

"ULLMANN'S Encyclopedia of Industrial Chemistry" Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA (2002).
"Ammonia in the environmnent: From ancient times to the present" M.A. Sutton, et al. Environmental Pollution 156, 583-604 (2008).
"A comprehensive treatise on inorganic and theoretical chemistry" J.W. Mellor (1922).
"Vegetable staticks" H.Stephen (1727).
"Alkaline air: changing perspectives on nitrogen and air pollution in an ammonia-rich world" M.A. Sutton, et al. Philosophical Transactions of the Royal Society A, 378, 20190315 (2020).
"Cark Wilhelm Scheele and Torbern Bergman" A. Lennartson (2020).
"Comparaison des analyses du sel ammoniac, de la soie et de la corne de cerf" J. Tournefort, Mémoires de mathématique et de physique de l'Académie royale des sciences, 71-74 (1700).
"Nitrogen Capture" A.S. Travis (2018).
『酸,アルカリ及肥料 下巻』庄司務 (1937).
『ルブランの末裔』久保田宏,伊藤輪恒男,東海大学出版会 (1978).
『歴史の中の肥料 [3] アンモニア合成への道(1)』高橋英一,農業と科学(2005).
『歴史の中の肥料 [4] アンモニア合成への道(2)』高橋英一,農業と科学(2005).
『リービヒ「化学の農業及び生理学への応用」再読』吉田武彦,肥料科学, 25, 61-97 (2005).
『黎明期カーバイドビジネスの系譜と野口遵』大塩武,経済研究, 153, 133-154 (2017).
日本窒素肥料における石灰窒素製造工業化の過程』大塩武,経済研究, 156, 79-99 (2018).
農林水産省HP,https://www.maff.go.jp/j/meiji150/toti/10.html
鹿児島県伊佐市HP,https://www.city.isa.kagoshima.jp/residency/kankou/kankouchi/
『情報無視が続いた水俣病原因解明の歴史』石原信夫,日衛誌,69,75-79 (2014).


目次 - 化学と歴史のネタ帳

*1:種,属,目,綱で植物を分類しました.

*2:Experiment Cに記載があります.他にも,LIIなどに関連した記載があります.

*3:Scheeleは1777年にアンモニアが窒素と水素を含むことを示し,Calude Louis Bertholletは1785年に窒素と水素が約1:3の比で含まれていることを明らかにしました.これにより組成が明らかになったのですが,この頃はまだアンモニアはN2H6と考えられていました.NH3であると受け入れられるようになるには,その後数十年かかりました.

*4:1910年ごろ,日本はイギリス産の硫酸アンモニウムを大量に輸入していました.第一次世界大戦で海外からの供給が厳しくなると国内生産量は3倍に増加しました.電気化学工業株式会社は窒素が1.6%と比較的多く含まれる満州の石炭を活用し,硫酸アンモニウムを製造していました.

*5:窒素化合物は火薬などの合成にも不可欠であったため,かなりの批判と論争を巻き起こしたようです.

*6:そもそもクルックスは電気火花を使って窒素を硝酸に変換する方法を念頭においていたようです.彼は1892年に放電によって空気中の窒素を硝酸に変換する技術に触れていました.その後も1897年にRayleigh (1842-1919) が同様の実験に成功しており,ナイアガラの滝のような安価な電力があれば,いつか工業スケールで電気によって窒素から硝酸を製造することが可能になるのではないかと考えていました. \mathrm{2N_2 +3O_2 \longrightarrow 2NO + 2NO_2 }   \mathrm{NO + NO_2 + H_2O \longrightarrow 2HNO_2 }  \mathrm{2HNO_2 + O_2 \longrightarrow 2HNO_3 }

*7:1909年に第2発電所が完成し,第1発電所は閉鎖されました.発電量は約6700キロワットと国内最大級を誇りましたが,1965年,鶴田ダムの建設に伴い湖底に沈みました.今でも5-9月に水位が下がると湖から姿を現し,中世ヨーロッパ古城のような幻想的な光景を見せてくれます.

*8:水俣工場ではカーバイドからアセチレンが作られるようになりました.1916年,ドイツのWacker-Chemie社が水銀触媒によりアセチレンからアセトアルデヒドを大量製造したことを受け,1932年には水俣工場でも1932年から水銀触媒による合成が開始されました.先に水銀触媒が利用されていたドイツではすでに有機水銀による中毒が報告され,論文も読める状況だったのにも関わらず日本では知られておらず,水銀を含む排水が無処理で水俣湾に廃棄されたために未曾有の公害,水俣病を引き起こしました.