化学と歴史のネタ帳

身近にひそむ化学と歴史を,高校までの知識をベースに解説する化学史系ブログです.

炎(15):アセチレン炎の利用

アセチレンを燃やした炎は,かなり高温で明るく輝くことが知られ,照明や溶接,分析技術などに幅広く使われました.

アセチレン炎

今回はアセチレンの用途を中心に,その歴史をみていきましょう.


炎(1):アルカリ金属
炎(2):アルカリ土類金属,銅
炎(3):炎の温度の計算?
炎(4):ガスバーナーの炎の色
炎(5):ロウソクの炎の色
炎(6):Mgの白色光?
炎(7):ロウソクのはじまり
炎(8):近代的なロウソク
炎(9):天然ガスの発見
炎(10):石炭ガス
炎(11):ガス灯の普及
炎(12):石炭から天然ガスへ
炎(13):ブンゼンバーナー
炎(14):アセチレンの発見
炎(15):アセチレン炎の利用

1.アセチレン製造法の開発

ベルテロ(Marcellin Pierre Eugene Berthelot, 1827-1907)によってアセチレンが発見された1860年トーマス・ウィルソン(Thomas Leopold Willson, 1860-1915)はカナダの農場経営者の両親のもとに生まれました.
【参考】炎(14):アセチレンの発見

Thomas Leopold Willson (1860-1915)

彼は1876年にHamilton Collegiate Instituteに入学しますが,お父さんが1879年に亡くなってしまったため,中退して鍛冶屋のJohn Rodgersのもとに弟子入りしました.ここで彼は自分でアーク灯を設計し,特許を取得しました.


22歳のときにアメリカに移り,5年間職を転々としたのちにニューヨークにおちつきました.この頃,電気炉を用いた鉱石製錬に関する6つの特許を取得しています.


このように彼はいろんな会社に所属しながらさまざまな特許を取得していくのですが,どれもうまくいきませんでした.そこで彼は自分で会社をつくることにしました.そうして1890年に立ち上げたのが電気会社であるWillson Electric社ですが,残念なことにこれもまた失敗に終わりました.


その年の暮れ,再びウィルソンはWillson Aluminum Company社を立ち上げ,今度はアルミニウム製造に乗り出しました.新会社の目標は安く純粋なアルミニウムを製造することです.


アプローチのひとつとして試していたのが電気炉を用いて塩化アルミニウムを還元する方法でした.


彼ははじめ,炭素塩化アルミニウムを還元する方法を試していました*1.しかしこの方法ではアルミニウムはあんまり得られませんでした.


そこで彼はもっと反応性の高い金属を使った方がよいのではないかと考え,生石灰CaOを同時に使うことにしました.彼が考えていたのはCaOを炭素で還元して金属カルシウムCaに変換し,それをアルミニウム精製に使うことでした.


しかしながら,1892年5月,反応の結果生じたのは明らかに金属カルシウムではない,黒くてもろい謎の物質でした.後に判明しますが,これはカルシウムカーバイドCaC2でした.
 \mathrm{CaO + 3C \longrightarrow CaC_2 + CO}

彼は得られたのが金属カルシウムではないと悟ると,近くの小川に投げ捨てたそうです.そしてそのとき,大量のガスが発生しました.これが,アセチレンです.
 \mathrm{CaC_2 +2H_2O \longrightarrow C_2H_2 + Ca(OH)_2}


ウィルソンはNorth Carolina大学のFrancis P. Venable (1856-1954) に相談し,そしてVenableはその物質がCaC2であり*2,発生したガスはアセチレンであることを突き止めました.


彼の方法がユニークなのは,電気炉を活用した点です.William Siemens (1823-1883) が1879年に電気炉を発明して以来,電気炉の加熱温度がどんどん更新されていきました.ウィルソンやモアッサンもこうした電気炉の改良に取り組んでいました.特にモアッサンは電気炉の改良 (とフッ素の研究と分離) で,1906年ノーベル化学賞を受賞しています.

Henri Moissan (1852-1907) と電気炉

実はモアッサンは1892年12月に3000℃まで加熱可能な電気炉を開発し,CaOと炭素からCaC2を合成できることを見出していました.


モアッサンはその成果を世界に訴えるわけですが,ラッキーなことにウィルソンは5月に合成に成功していたCaC2のサンプルを9月にKelvin卿に送っていましたので,これが証拠となってウィルソンは無事,カルシウムカーバイド合成法の開発者の名誉を得ることになりました.

2.アセチレンの利用

アセチレン製造に自信を深めたウィルソンは早速これをもとに事業を展開しようとしますが,当時CaC2やアセチレンにはあまり用途がなく,だれも特許を買ってくれませんでした.


そこでウィルソンはその活用法をプロモーションしようということで,アセチレンを照明に使うことを宣伝しはじめました.アセチレン最初の発見者であるDavyが提案していたものですね.
【参考】炎(14):アセチレンの発見

アセチレン灯 Par Didiphor — Travail personnel, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46260797

アセチレン灯をつくってみたところ,これは石炭ガス灯に比べて10-12倍も明るかったようです.


こうしてアセチレン灯は一気に普及していきました.1894年には無事,CaC2を1t販売することができ,ついでにアメリカでの特許の売却にも成功しました.


一気に生産されるようになったアセチレンの大半は照明につかわれていきました*3

アセチレン灯による車のヘッドライト


一方でフランスの化学者ルシャトリエ(Henry Le Chatelier, 1850-1936) は1895年,酸素ガスとアセチレンを組み合わせて燃焼させると3200℃という高温を達成できることを発見していました.1897年, ルシャトリエの弟と同じCFAD社に勤めていたCharles Picardはルシャトリエの発見を知り,これを溶接に転用することを考えました.

溶接技術自体はもともと存在していました.


例えば1838年にフランスのEugène Desbassayns de Richemont (1800-1859) が特許を取得した溶接方法*4では,空気と水素ガスをまぜた混合ガスによる炎を用いていました.
 \mathrm{2H_2 + O_2 \longrightarrow 2H_2O}


また,Robert Hare, Jr. (1781-1858) は1847年にフィラデルフィア酸素と水素の混合ガスによる炎を使った実演をしました.1850年代にはフランスの化学者Henri Sainte-Claire Deville (1818-1881) が混合方法を改良し,安全な溶接技術を確立しました*5


Picardのアセチレン炎による溶接技術の開発は,はじめはうまくいかなかったようです.ルシャトリエは,Devilleが1850年代に開発していた溶接技術を思い出し,これを参考にしたらどうかと提案しました.早速このアイデアを取り入れたPicardは,1901年に高温の酸素-アセチレン炎を活用した溶接技術の開発に成功しました.


1903年にはアセチレン炎による溶接技術が工業的に実用化され*6酸素ガスの需要も拡大しました.


酸素ガスは当初電気分解か,塩素酸カリウムの熱分解などで取り出すしかありませんでした.
 \mathrm{2H_2O \longrightarrow 2H_2 +O_2   }
 \mathrm{2KClO_3 \longrightarrow 2KCl +3O_2   }


そこでドイツのリンデ(Carl von Linde (1842-1934)が空気を冷却,液化して酸素ガスを取り出す方法を開発しました.


1902年,これを知ったCFAD社を設立したフランスのGeorges ClaudeがE. Solvayの開発した冷却技術を改良し,より効率よく酸素ガスを得る方法を実用化しました.Lindeの方法では1898年時点で50%くらいまで酸素ガスを濃縮することができた一方,Claudeの方法では1905年時点で93%近くまで濃縮することができました.


Claudeはその後,空気の冷却技術を活用してネオンNe (1908年) やアルゴンAr (1914年) を製造しました.製造されたネオンはネオン管として照明に活用されました.

By Pslawinski, CC BY-SA 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=381579

1910年にはパリの展覧会場Grand Palaisのイルミネーションに使われ,二年後にはパリの理髪店の看板にネオンサインとして使われました.こちらの方が,Claudeの業績としては有名かもしれません.


さらにその後,アセチレンは化学工業の原料としても広く使われるようになりました.1912-1913年にはドイツのChemische Werke Hüls社がビニルアセテートの合成法を発見し,1916年にはアセトアルデヒドの製造が始まりました.


ドイツのElberfelder Farbenfabrik社では天然ゴムが将来的に枯渇してしまうかもしれないということで,第一次世界大戦中にアセチレンを原料とする合成ゴム製造の研究がはじまり"Ersatzgummi"と呼ばれる合成ゴムを開発しました*7


ドイツはアセチレン合成法の改良にもかなり力を入れていました.1930年代からアーク放電によるアセチレン製造法の開発が進められ,その過程で副生物であるエチレンや水素,カーボンブラックなども製造できるようになりました.


また,BASF社のWalther Reppe (1892-1969) は石油を使わずにアセチレンからさまざまな高分子を合成する手法を開発しました.こうした体制は自国での合成ゴムや燃料の生産を可能にし,1939年以降の第二次世界大戦を可能にしました.

3.アセチレン炎と分析化学

アセチレン炎は元素の定量にも活用されました.


例えば1860年ブンゼン(Robert Wilhelm Bunsen, 1811-1899) が開発した炎色反応による元素分析法は,1870年代に元素定量法として進化を遂げていました.1873年にはナトリウムNa定量され,1874年にはリチウムLi定量されました.
【参考】炎(13):ブンゼンバーナー


その後しばらく大きな変化はあまりありませんでしたが,1923年,De gramontが元素の発光スペクトルを得る際に酸素-アセチレン炎を導入しました.これを受けて1929年,スウェーデンの植物学者Henrik Gunner Lundegårdh (1888-1969) が酸素-アセチレン炎を用いて炎色反応により元素を定量する炎光光度法を開発しました.

By Aaron Escobar, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29282045

Lundegårdhは開発した炎光光度法を用いて,1930年代から植物による無機塩の取り込みと呼吸との関係を丹念に調べました.その結果,土壌中の無機塩自身が根からの吸収を促進させ,呼吸を活発化させると結論づけました.


これらは原子*8発光を用いた定量法です.一方1950年代には,原子の吸収を用いた定量法が開発されました.

Alan Walsh (1916-1998) By CSIRO, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=35442780

ウォルシュ(Alan Walsh, 1916-1998)は綿工場の経営者の長男として生まれました.ユーモアと責任感のある子供だったようです.


大学でウィリアム・ローレンス・ブラッグ(William Lawrence Bragg, 1890-1971) 教授の講演を聞き,X線による結晶構造の決定法に非常に感銘を受けました.そのようなこともあってか,大学院では奨学金をもらって結晶構造解析の研究をしていました.


大学院卒業後の1939年9月からBNFの物理学部門で働き始めますが,ちょうどこの頃,ドイツやソ連ポーランドに侵攻し,第二次世界大戦が幕を開けたのでした.


ウォルシュは撃墜された敵の爆撃機に使われている金属を特定する仕事を任されました.彼が用いたのは分光学でした.原理としては,ほぼ炎色反応と同じで,原子からの発光を用いるものです.

彼の開発した方法を用いることで,合金に含まれるAl, Cu, Znの量を迅速に測定することができました.


こうしてウォルシュはBNF内で分光学をリードしました.戦争が終わる頃にはある程度の満足感を得ていたと語っています.一方で,これ以上の進歩には全く新しいアプローチが必要だとも感じていたようです.


戦後はオーストラリアのCSIRに勤務し始めました.CSIRでははじめ,赤外分光法に取り組んでいました.

赤外分光法は,赤外線を分子に照射して,その「吸収」の様子を測定する分析法です.吸収のようすからさまざまな情報を得ることができます.


分子は「吸収」を調べるのに,なぜ原子は「発光」しか調べないのでしょう?


彼は赤外分光に携わったことによりこのような疑問を持ち,「発光」よりも「吸収」の方が利点が多いかもしれないと思ったそうです.

こうして1952年3月のある日曜日の朝,ウォルシュは原子の「吸光」を利用する原子吸光法という新しい分析手法を着想しました.1955年には,無事,論文が発表されました.

原子吸光分析装置 By Bubusława Górny - Own work, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=84475819

原子吸光法の普及にはいくつかの技術的なブレイクスルーが必要でしたが,そのうちの一つが熱源です.サンプルによっては加熱してもなかなか原子化されないため,とても熱い炎が必要です.


はじめは石炭ガス炎を用いていましたが*9,温度が低くて適用できるサンプルが限られていました.そこで次に空気-アセチレン炎が使われ,さらに酸素-アセチレン炎をトライするグループも出てきました.
【参考】炎(10):石炭ガス


酸素-アセチレン炎は高い温度が出るのですが,燃焼速度が速く,炎が逆流して爆発してしまう危険性がありました.そこで,1965年,ウォルシュの同僚でもあるJohn WillisとMax Amosは亜酸化窒素N2Oとアセチレンの混合炎を用いて,安全に高い温度でサンプルを原子化させる仕組みを確立しました.


こうした高温の炎が導入されたおかげで,これまで測定の難しかったAl, V, Zr, Beなどを含めて65種類以上の元素を定量できるようになりました.

4.まとめ

光源としてのアセチレンはやがて電灯に,高分子合成の材料としてのアセチレンは石油由来の安いエチレンに,熱源としてのアセチレン炎はより高温の誘導結合プラズマなどに主役の座を渡しました.


しかしながら完全に表舞台から消えたわけではなく,化学合成の原材料としても溶接の現場でもまだ利用されています.最近では,アセチレンによる高分子合成は白川英樹先生のノーベル化学賞受賞 (2000年) につながりました.

参考文献

"ULLMANN'S Encyclopedia of Industrial Chemistry" Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA (2002).
"History of Industrial Gases" E. Almqvist, Springer (2003).
"Acetylene and Its Polymers: 150+ Years of History" S.C. Rasmussen, Springer (2018).
"Flame Spectroscopy" Mavrodineanu, R. and Boiteux, H. (1965).
"Complete Dictionary of Scientific Biography"
"Sur l'emploi de chalumeau oxyacétylènique en Analyse spectrale. Applications à la Minéralogie" M.A. de Gramont, Comptes rendus hebdomadaires des séances de l'Académie des Sciences, 176, 1104-1109 (1923).
"Contributions of Henrik Lundegårdh" A.W.D. Larkum, Discoveries in Photosynthesis, 139-144 (2005).
"History of Analytical Chemistry" F. Szabadváry, Pergamon press (1966).
『分析化学の歴史』F. Szabadváry (1988).
『化學史談 II ギーセンの化学教室』山岡望,内田老鶴圃 (1952).
"Sir Alan Walsh. 19 December 1916 – 3 August 1998: Elected F.R.S. 1969" P. Hannaford Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society 46, 535-564 (2000).
"A history of atomic absorption spectroscopy" S.R. Koirtyohann, Spectrochimics Acta, 35B, 663-670 (1980).

目次 - 化学と歴史のネタ帳

*1:これは偶然にもフランスの化学者モアッサン(Ferdinand Frédéric Henri Moissan, 1852-1907)が試していたアプローチと同じでした.

*2:実はCaC2自体は新しい物質ではなく,Robert Hare (1781-1858) によって1839年に合成されていました.また,CaC2がアセチレンを発生させることは1862年Friedrich Wöhler (1800-1882) によって発見されていました.このときWöhlerはCaC2亜鉛とカルシウムの合金を炭素とともに加熱することで合成していましたから,Willsonのアセチレン製造法とほぼ一緒です.

*3:既に普及していた石炭ガスや石油ガスの照明よりも明るくヨーロッパでは1920年代まで利用が拡大していきましたが,これらを完全に置き換えるまでには至りませんでした.1910年代には電灯が登場し,こちらは普及していきました.

*4:1840年には"soudure autogène"という名前で呼んでいました.

*5:ちなみに1888年にはイギリスで,Thomas Fletcher (1840-1903) が石炭ガスと酸素ガスを混合して燃焼させた炎による溶接技術を開発しました.その有効性は,1890年に発生した酸素-石炭ガス炎による金属の切断を利用した銀行強盗によっても裏付けられます.

*6:ちなみに第一次世界大戦後はアーク溶接も実用化されていきますが,当初は空気中の酸素がまじって溶接部分がもろくなってしまうという欠点がありました.第二次世界大戦頃には新たな金属を扱う必要があるということで改良が検討され,ヘリウムなどの貴ガスによってシールドすることで酸素の混入を防ぐ方法が開発されました.

*7:もっとも,これは空気中の酸素と反応すると壊れやすくなるため,実用的なアセチレン由来の合成ゴムであるネオプレンは最終的にアメリカのDu Pont社が1932年に開発しました.

*8:カルシウムの場合は分子です.【参考】炎(2):アルカリ土類金属,銅

*9:塩化ナトリウム水溶液を用いたデモンストレーションに使用しました.