石炭ガスの普及により都市ガスシステムが構築されました.
【参考】炎(11):ガス灯の普及
しかし当時の技術では,石炭の燃焼によって深刻な大気汚染が引き起こされてしまいました.そこで,よりクリーンなエネルギー源のひとつとして注目されたのが天然ガスです.
今回は,天然ガス普及の歴史を見ていきましょう.
炎(1):アルカリ金属
炎(2):アルカリ土類金属,銅
炎(3):炎の温度の計算?
炎(4):ガスバーナーの炎の色
炎(5):ロウソクの炎の色
炎(6):Mgの白色光?
炎(7):ロウソクのはじまり
炎(8):近代的なロウソク
炎(9):天然ガスの発見
炎(10):石炭ガス
炎(11):ガス灯の普及
炎(12):石炭から天然ガスへ
炎(13):ブンゼンバーナー
炎(14):アセチレンの登場
炎(15):アセチレン炎の利用
1.天然ガスの性質
天然ガスと呼ばれるものは,その80%以上がメタンCH4で,残りはエタンC2H6,プロパンC3H8といった炭化水素で構成されています.このほかに,採取される場所によっては不純物として硫化水素H2SやCO2などが含まれることもあります.
メタン,エタン,プロパンは炭素数が増えると分子の表面積が大きくなり,分子間の相互作用が大きくなります.そのため沸点が規則的に上昇し,メタンは沸点が-161.6℃,エタンは-89℃,プロパンは-42.1℃となります*1.
ガス | 化学式 | 沸点 | 融点 |
---|---|---|---|
メタン | CH4 | -161.5 ℃ | -182.5 ℃ |
エタン | C2H6 | -88.5 ℃ | -182.8 ℃ |
プロパン | C3H8 | -42.1 ℃ | -187.7 ℃ |
二酸化炭素 | CO2 | -78.5 ℃ (昇華) | - |
硫化水素 | H2S | -59.6 ℃ | -85.5 ℃ |
天然ガスを-162℃以下に冷却すると,こうしたメイン成分が液化するので,天然ガスが液体になり,体積が600分の1になります.こうした液化天然ガス (LNG) は貯蔵や輸送も楽ですね.
一方,不純物のCO2やH2Sなどは-162℃以下に冷却すると固体になってしまいます.そうすると配管などをつまらせるおそれがあるので,事前に除去する必要があります*2.
除去にはいろんな方法がありますが,1930年代からよく使われているのはモノエタノールアミン (MEA) やメチルジエタノールアミン (MDEA) といったアルカノールアミン溶液を使う方法です.こうした溶液は,メタンはあまり吸収しませんが,CO2やH2Sをよく吸収します.
モノエタノールアミン (MEA) はCO2やH2Sを両方ともかなり吸収してくれます.不純物をほとんどなくしたいというのが主目的だったらこれを用いるのが良さそうです.ただし,MEAに一度吸収させたH2Sを取り出すのはなかなか大変です.
一方で,メチルジエタノールアミン (MDEA) はH2Sを大変よく吸収し,CO2はあまり吸収しません.MDEAの場合,吸収させたH2Sを再び取り出すことができるのが良い点です.取り出したH2Sからは,Claus法で硫黄を回収することができます.
また,天然ガスには微量ながらヘリウムHeを不純物として含む場合があります.これは大変貴重な資源です.ヘリウム (常圧での沸点は約-269 ℃)は冷却したもなかなか液体にならないガスですので,天然ガスを冷却して液化する際に,気体として丁寧に回収します.
天然ガスはエネルギー源としてかなり優秀であることが知られています. 例えば木材は1500-2000 kcal/kg,石炭は5000-8000 kcal/kg, 石油は8000-11000 kcal/kgであるのに比べ,天然ガスは13000 kcal/kgとかなり高い発熱量です.
これは,成分元素の発熱量を考えるとおおよそわかりやすいです.例えば炭素の発熱量はおおよそ7800 kcal/kg, 水素ガスは34000 kcal/kgです.そのため,水素が多く含まれるほど発熱量が多くなります.天然ガスの主成分はメタンCH4ですから水素比率がかなり高く,発熱量が高いのもうなづけます.
2.石炭からの転換
石炭よりもエネルギー効率の良い天然ガスですが,しばらく積極的に使われることはありませんでした.どちらかというと,西洋では石炭ガスの方が中心に使われていました.
原因はいくつか考えられるでしょうが,大きなガス田が発見されていなかったというのが大きいでしょう.その一方で石炭は比較的いろんな場所で産出するため手に入りやすく,照明以外にも工業など様々な用途で使用されていました.
しかし石炭には大きな問題がありました.煙害です.
石炭は微量ながら硫黄などを含むため,燃焼時に二酸化硫黄SO2が発生します.これが同時に発生する微粒子 (C, SiO2, Fe2O3) の表面上で酸化されるとSO3に変化し,水蒸気と反応してH2SO4が生成します.
これが霧状の水滴に吸収されると硫酸ミストになります.これが肺に入ると呼吸器系がやられてしまい,時には死に至ることがあります.
煙 (smoke) と霧 (fog) からスモッグ (smog) という言葉ができたのは1905年のことです.昼が夜のように暗くなる黒いスモッグによる被害は,20世紀初頭からロンドンなどで社会問題化していきました.
一方で天然ガスは燃やしても煙が出にくい非常にクリーンな燃料です.そこでアメリカでは比較的早い段階から天然ガスへの切り替えがスタートしました.
アメリカのピッツバーグはガラス産業や製鉄など重工業が発達していました.石炭が地表に露出し簡単に得られたこともあり石炭の消費量が凄まじく,アメリカで最も煙に覆われた町でした.石炭の煙は仕方ないとはいえキツかったようです.
1870年代になると,Marcellus Shaleからの天然ガス,いわゆるシェールガスの工業利用が始まりました.石炭ガスよりも安価で火力が一定だという点がビジネス上都合が良かったようです.
シェールガスは煙が少なくてクリーンだということがわかると,1882年にはピッツバーグ南部に供給され一般に利用されるようになりました.
はじめはパイプラインの技術が未熟で爆発事故が起きたりもしましたが,天然ガスが広く普及したことで一時は清浄な空気を取り戻すことができました*3.
その後,各地で天然ガスへの切り替えが行われ始めました.第一次世界大戦中は天然ガス使用が制限されてしまいますが,1910-1920年代にガス田の発見が相次ぎ,第一次世界大戦後に発展した溶接技術*4や1930年代に発展した鉄鋼技術によりパイプラインの敷設が進んだことで,1960年までにはアメリカ国内のほとんどが天然ガスに切り替わりました.
ちなみに,アメリカ北東部はガス田があまりなかったのですが,戦時中にUボートの脅威から石油を陸上で輸送するパイプラインがテキサスからひかれたので,これを戦後,天然ガスに転用することで北東部にも天然ガスが普及しました.
このように,アメリカではパイプラインの研究が早くから進んでいました.1930年代に高圧低温条件下ではメタンが水分子と複合体を形成して固体となり,目詰まりの原因となることが指摘されはじめました*5.この複合体が,いわゆるメタンハイドレートです.パイプライン中でのメタンハイドレートの生成を防ぐため,その基本的性質がいろいろと調べられました.
1960年代にはこうしたメタンハイドレートは海底など自然界にも存在することが明らかとなり,現在注目を集めています.
3.戦後復興と天然ガス
一方,ヨーロッパで天然ガスが普及しはじめるのは第二次世界大戦後,1950-60年代に入ってからです*6.
ヨーロッパでは戦後,復興のためにあらゆる場所でエネルギーが必要とされ石炭が多く消費されていきました*7.その結果,石炭の煙害がかなり深刻化しました.
例えばロンドンでは1952年の寒い冬,大規模なスモッグにより1万人以上が死亡しました.
こうした状況をうけ,1950年代以降,大気汚染を防止する法律が次々と制定されました.
はじめは代替エネルギーとして石油が使用されました.石油を燃料とする内燃機関の普及も手伝い石油の需要は激増し,マーシャル・プラン(欧州復興計画)の資金の約1割は輸入石油の購入に使われました.
石油暖房は石炭のように煙が出ないので家の中がきれいになると考えられて一般家庭に普及し,都市部は石炭の黒い煙から解放されました.
ヨーロッパ各国では石油を輸入するだけでなく,油田を国内で探索する動きもありました.
オランダではもともとジュラ紀〜白亜紀 (約1-2億年前)の地層から油田が出ていました.1959年,Nederlandse Aardolie Maatschappij社がフローニンゲン(Groningen)でこれより下のペルム紀 (約3億年前) の地層を調査していたとき,Slochteren-1と呼ばれる坑井で天然ガスの噴出を確認しました.当時は「石油じゃない」ということであまり関心が払われなかったようです.
しかし1960年に20 km北東の地点でも同様の圧力・組成の天然ガスが噴出すると皆の見る目が変わりました.なぜならこれはSlochteren-1と合わせて巨大なガス田の存在を示すものだからです.こうして発見されたフローニンゲンガス田は当時世界一の規模を有する超巨大ガス田となりました.
さて,このガスを何を使えば良いのでしょう?
当初,シェルなど石油会社上層部は産業や発電への利用を検討しましたが採算が合わないと考えていました.一方でこの問題に取り組んだ若手エコノミストを中心とした4人組は徹底的な検討の上,ヨーロッパで儲かるのは家庭用暖房だと結論づけました.
オランダには石炭ガス網がすでに存在していましたが,この提言をきっかけとして国を挙げて天然ガスへの切り替えを図りました.こうして,1960年代初頭では石炭が家庭用暖房の主流でしたが,1969年にはオランダの家庭の約6割が天然ガスに切り替えました.また,フローニンゲンのガスはベルギーやドイツなどをはじめとするヨーロッパ各国にも輸出されました.
フローニンゲンガス田の発見はヨーロッパ各国に衝撃を与えました.そのガスの起源はイギリス海岸まで続く巨大な石炭層にあることが判明し,イギリスやノルウェーによる北海地域のガス田開発につながりました*8.パイプラインの技術が進歩したことにより,数1000 km離れた場所へ輸送しても石油や石炭と価格面で競争できるようになり,ヨーロッパに一気に天然ガスが普及しました.
こうしてフローニンゲンのガス田はヨーロッパのエネルギー史において象徴的な存在となったのですが,その採掘には代償も伴いました.
フローニンゲンではガス田の開発からしばらくたって,地震が頻発するようになりました.1986-1990年では3回しか起きていませんが,1991年には4回,1993年には16回と増加し,2013年には121回地震が起きました.
もともと地震が多い地域ではなかったため,歴史的なレンガ造りの家屋はかなりダメージを受けてしまい,住民の不安は慣れない地震に怯える日々を送らされるようになりました.
オランダ政府はこうした「人工地震」の被害を踏まえ,ガス生産を抑制する方向に舵をきりました.一時は年間539億 m3に達した天然ガス採掘は,2022年現在では年間45億 m3にまでセーブされています.
4.ソ連と天然ガス
ソ連では少し状況が違います.石炭ガスの供給網はヨーロッパほど発展していなかったからです.
オーストリア=ハンガリー帝国 (1867-1918) 末期,ウクライナの西部の村Dashavaで天然ガスが発見されました.しばらくは特に開発もされませんでしたが,第一次世界大戦後,ポーランド支配下で採掘がはじまりました.
1929年にはDashavaとリヴィウLvivを結ぶ全長68 kmのパイプラインが敷設され,さらにナチス占領時代にはStalowa Wolaまで約200 kmのパイプラインが追加されました.
ソ連はこうしたガス供給網を継承したため,「生まれながらの天然ガス輸出国」となりました.1944年に受け継いだ後,1948年にはキーウKievまで500 kmのパイプラインが,1951年にはモスクワまで800 kmのパイプラインが敷設されました.
スターリン (Joseph Vissarionovich Stalin, 1878-1953) の後トップとなったフルシチョフ(Nikita Sergeyevich Khrushchev, 1894-1971)は天然ガスの可能性を信じており,ガス事業に本腰を入れるようになりました.1950年代後半にはウクライナ東部やコーカサス北部から中心地モスクワへのパイプラインが敷設され,一方でベラルーシやバルト三国といった域内各地域への供給網も整っていきました.
しかしその後の政策の混乱のため,ガス事業の雲行きが怪しくなります.シベリア西部では(のちに超巨大であることが判明する)ガス田が発見されましたが,軍産部門に人的・物的資源が集中したこともあり,なかなか開発が進みませんでした.その間,ウクライナの天然ガス資源が使われすぎたという指摘もあります.
1960年代,ソ連ではシベリア西部のガス田開発が進まない一方,アメリカではパイプライン関連技術が発達し,西ヨーロッパでは天然ガスの需要が急拡大していました.シベリア西部を開発するには,これを利用しない手はありません.
第3次中東戦争の勃発した1967年,ソ連高官らはオーストリア*10を訪れ,へルンシュタイン城で西側企業と会談を行いました.1968年,ワルシャワ条約機構がチェコスロバキアに侵攻する(チェコ事件)という最悪の情勢であったにもかかわらず両者は合意し,鉄のカーテンを超えた東西のガスの架け橋 (Gas Bridge)が誕生しました.
1970年には東方外交を掲げる西ドイツへの供給も開始され,ソ連の天然ガスが本格的に西ヨーロッパに進出しました*11.オイルショック,反原発運動*12などエネルギー資源を巡る激動の時代を経て,好むと好まざるとロシア産の天然ガスに依存するヨーロッパという構図が形成されていきました.
5.天然ガスの液化
大規模なガス田からパイプラインをひくことができる地域は,早くから天然ガスの恩恵に預かることができました.一方で,日本のように近くに小規模なガス田しかない地域では普及が進みませんでした.
1970年代以降,こうした地域への天然ガスの普及に大きく貢献したのが,天然ガスの液化技術です.
第一次世界大戦中 (1914-1918) ,ロンドンをドイツ軍の飛行船による爆撃が襲っていました.飛行船は,当時飛行機が飛べる高さよりも高いところを飛べるというメリットを活かしたものでした.
【参考】ヘリウム(1):風船に使うのはなぜ?
当時飛行船には水素ガスをつかわれていたのですが,水素ガスは爆発しやすく危険なので,ドイツ軍はこれを不燃性のガスに切り替えようとしていました.この噂を聞きつけたイギリスは,反応性がなく非常に軽いヘリウムガスに着目しました.
1917年,イギリス政府は天然ガスに含まれるヘリウムガスの回収方法として,天然ガスを液化するアプローチ*13を検討しました.政府はLinde Air Products社*14にこの製造を依頼し,同社は年内にこのアプローチによるヘリウム回収法を確立させました.アメリカには多くのヘリウム含有天然ガスが産出したこともあり,ヘリウムの一大産地となりました.
1920年,Godfrey Cabotは天然ガスを液化させると体積が大きく減少することに着目し,これを輸送に用いることを考えました.こうした液化天然ガスの利用についてはアメリカやソ連で精力的に研究が進められました.
液化天然ガスはもちろん貯蔵にも便利です.1940年,アメリカのHope Natural Gas Company社がウェストバージニア州の自社工場に液化天然ガス貯蔵用施設,いわゆるピークシェービングプラントを設置しました.50 m3くらいが貯蔵できたそうです.
1941年にはEast Ohio Gas Company社がオハイオ州Clevelandにピークシェービングプラントを設置しました.こちらは8000 m3とのことですからかなり大型ですね.2年半後にはタンクがさらに追加されたのですが,なんとこれが1944年,大爆発事故を起こしてしまい200名が亡くなってしまいました.結果として,アメリカでは1960年代まで新たなピークシェービングプラントは設置されませんでした.
しばらくは液化天然ガスを貯蔵に用いる動きは下火になりましたが,やがてイギリスで輸送に用いる話が持ち上がりました.
1954年,シカゴの実業家William Wood Princeが英国ガス協議会を訪問しました.Wood Princeはメキシコ湾岸からシカゴへと液化したメタンを船で輸送した経験があり*15,その経験を活かしてタンカーで液化天然ガスをイギリスに輸送したいと考えていたのです.
ガス協議会はこの提案に賛成し,タンカーの開発をはじめました.メタンを液化するのには-162℃近くまで冷却する必要がありますが,ここまで低温だと,スチール製のタンクでは耐えられません.そのため,アルミニウム製のタンクを用意する,などの工夫が必要だったようです.
そして1959年1月,Methane Pioneer号が液化天然ガスを載せてルイジアナ州を出発し,2月20日,イギリスのキャンベイ島に到着しました.液化天然ガス輸送の幕開けです.
液化天然ガス輸送は,パイプラインの敷設が困難な地域間での輸送手段として非常に魅力的になりました.
アルジェリアのHassi R'Melでは1956年にガス田が発見されていましたが,アルジェリア戦争 (1956-1962) の影響もあり国際パイプラインをヨーロッパへ敷設することは当時絶望的でした.
そこで,1961年,イギリス政府は液化天然ガス輸送に目をつけ,アルジェリアのArzewから天然ガスを液化させてからタンカーで運ぶプロジェクトをスタートさせました.1964年にはMethane Progress号およびMethane Princess号と呼ばれたタンカーが年間56回往復し,12000トン*16の液化天然ガスを運びました.フランスへは翌年,輸送が開始されました.
こうして天然ガスを遠い地域へも大規模に輸送することが可能となりました.
日本では戦後,石炭や石油をエネルギー源として工業化を進め高度経済成長を成し遂げましたが,1950-1960年代にかけて深刻な大気汚染,水質汚染による公害が発生しました.
そこでクリーンな天然ガスの利用が検討され,1969年から東京ガスと東京電力によるアラスカからの液化天然ガスの輸入が始まりました.
6.おわりに
IHクッキングヒーターの普及によって家庭内でガスの炎を見かける機会は少なくなりましたが,今でも湯沸かしなどに活用されています.
ちなみに天然ガスには匂いがないのでガス漏れに気付きにくいという危険性があります.そのため,例えば東京ガスでは臭いをつけるために付臭剤(シクロヘキセンやターシャリーブチルメルカプタン)を加えています.
東京ガス : プレスリリース /都市ガスの付臭剤成分の変更について
次回はちょっと趣を変えて,ガスを使った実験器具,ガスバーナーの物語を見てみましょう.
参考文献
"ULLMANN'S Encyclopedia of Industrial Chemistry" Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA (2002).
"History of Industrial Gases" E. Almqvist, Springer (2003).
"Acetylene and Its Polymers: 150+ Years of History" S.C. Rasmussen, Springer (2018).
"CRC Handbook of Chemistry and Physics" (2016).
"Why is the melting point of propane the lowest among n-alkanes?" V.R. Thalladi, R. Boese, New Journal of Chemistry 24, 579-581 (2000).
"The Historical Transition from Coal to Hydrocarbons: Previous Explanations and the Need for an Integrative Perspective" O. Melsted, I. Pallua, Canadian Journal of History, 53, 395-422 (2018).
"Evolution of the Gas Industry" M.W.H. Peebles (1980).
『天然ガス新世紀 : 持続可能なエネルギーシステムに導く究極の化石燃料』森島宏 (2003).
『中国の石油開発事情について』松澤明,石油技術協会誌 45, 262-266 (1980).
『環境科学の基礎』御代川貴久夫,培風館 (2003).
『エネルギー400年史』リチャード・ローズ,草思社 (2019).
"Geology of the Groningen field - an overview" J.de Jager, C. Visser, Netherlands Journal of Geosciences, 96, s3-s15 (2017)
"Boom and Bust in Pittsburgh Natural Gas History: Development, Policy, and Environmental Effects, 1878-1920" J.A. Tarr, K. Clay, The Pennsylvania Magazine of History and Biography, 139, 323-342 (2015).
"Natural gas hydrates – A promising source of energy" Y.F. Makogon, Journal of Natural Gas Science and Engineering, 2, 49-59 (2010).
"History of earthquakes and natural gas in Groningen" T. White, The Northern Times, 2022/10/19.
*1:融点は結晶構造の都合から炭素数からは予測できない振る舞いをしていることに注意しましょう.
*2:もちろん,こうしたガスは毒性があったり,配管を腐食したり,燃焼効率を低下させたりしてしまうので,そうした意味でもある程度除去することは望ましいです.
*3:しかしながらその後,ガス田が枯渇して一時的に石炭ガスに戻ってしまいました.
*4:1880-1890年代にロシアでNikolais BenardosやNikolai Slavianoffが開発したアーク溶接は第一次世界大戦中のアメリカで造船業に使われ,戦後はパイプラインに転用されました.
*5:ガスハイドレートの存在自体は1778年にJoseph Priestleyが二酸化硫黄について,1811年にHumphrey Davyが塩素について報告しています.
*6:例外として,第二次世界大戦中にガス田が発見されたフランスの一部都市 (Toulouse, Bordeaux)やイタリアのポー平原近くが挙げられます.
*7:都市ガスとしては,製鉄に必要なコークスを得るために石炭を乾留して得られる石炭ガスを用いていました.こうしたガスは,パイプラインにより都市へと供給されました.
*8:これ以前にもフランス南部やイタリア北部でガス田が戦後発見されましたが,そこまで大きくありませんでした.
*9:2023年4月25日現在,オランダ政府は停止の方向で動いています.
*10:当時チェコスロバキアから鉄のカーテンを超えて天然ガスを輸入しはじめていました.
*11:西側向けの輸出はあまりにも突貫工事であったため逆にウクライナ国内でガス不足になったり,東欧諸国との軋轢を生んだりもしました.
*12:1970年代半ば,ドイツのWyhlという農村ではじまった原子力発電所建設計画に対する抗議運動がドイツ全土に広がり,ドイツでの原子力発電に急ブレーキがかかりました.Whylでの抗議運動はなかなか風刺が効いたものがあり,例えば1974年7月に計画認可の公聴会が行われた際は,一方的な地元政府への抗議の意味を込めて"DEMOCRACY(民主主義)と書かれた黒い棺を運ぶ葬儀の列が会場に現れ,村長宅まで厳かに行進したそうです.
*13:1915年にはすでにGodfrey Cabotが天然ガスの液化に成功していました.
*14:空気を液化して酸素を製造する手法 (1906年) を開発したCarl von Lindeによって1907年にアメリカのオハイオ州に設立された会社です.アメリカ初の大規模酸素製造を担いました.政府とのコネクションも強く,第二次世界大戦中にはウラン精製技術の発展に大きく貢献しました.
*15:運ばれたメタンは肉を冷やしたり,工場の燃料に使っていたそうです.