化学と歴史のネタ帳

身近にひそむ化学と歴史を,高校までの知識をベースに解説する化学史系ブログです.

炎(13):ブンゼンバーナー

19世紀半ば,石炭ガスが普及したヨーロッパにおいて理科実験に欠かせない実験用ガスバーナーの原型が誕生しました.

Needle valveつきのBunsenバーナー

今回は実験用ガスバーナーの生みの親であるロベルト・ブンゼンを紹介しましょう.



炎(1):アルカリ金属
炎(2):アルカリ土類金属,銅
炎(3):炎の温度の計算?
炎(4):ガスバーナーの炎の色
炎(5):ロウソクの炎の色
炎(6):Mgの白色光?
炎(7):ロウソクのはじまり
炎(8):近代的なロウソク
炎(9):天然ガスの発見
炎(10):石炭ガス
炎(11):ガス灯の普及
炎(12):石炭から天然ガスへ
炎(13):ブンゼンバーナー
炎(14):アセチレンの登場
炎(15):アセチレン炎の利用

1.Robert Wilhelm Bunsen

Robert Wilhelm Bunsen (1811-1899)

ブンゼンの家筋は代々Arolsenの名望家で,元々は農業,のちに造幣官を務める人が多かったようです.祖父のPhilipp Christian Bunsen (1729-1790) も造幣官で,フランス語に堪能で,金細工にも長け,いろいろな装飾品を作っていたそうです.


父のChristian Bunsen (1770-1837) は9人兄弟の末弟として生まれました.長男などとくらべて責任が軽いせいか自分の思うままの人生を選択し,一族ではじめて学者として身を立て,Göttingen大学でChristian Gottlob Heyne (1729-1812) の後を継いで美学や文明史,ドイツ文体論を教えていました.


ロベルト・ブンゼン(Robert Wilhelm Bunsen, 1811-1899) は4人兄弟の末っ子で,小さい頃から父を訪ねるフランスなどの外国の青年たちと交流を深め,次第に外国の書物や古典も気楽に読むことができるようになりました.こうした語学の才は,卒業論文や学会の往復文書をラテン語で書いたりしていたことからも伺い知ることができます.


Göttingen大学では化学,地質,物理,数学など様々な学問に興味を持っていたようです.特に数学に対する熱情は彼の生涯を一貫しており,どんな化学上の研究もそれを「測定と計算」に持っていかなければ満足することができなかった彼の性質に通じています.


大学卒業後はヨーロッパ諸国を旅して見聞を深めたのち,Göttingen大学の講師,Kassel工業専門学校の教師,Marburg大学の員外教授,Breslau大学の教授となったのち,1852年にHeiderberg大学の教授に着任しました.

ブンゼン電池

Marburg大学時代の功績として,ブンゼン電池*1の発明があります.元となったGrove電池は,1839年,弁護士・判事だったSir William Robert Grove (1811-1896) が仕事の合間に発明したものでした.電極には亜鉛と,価格の高い白金が使われていました.


1841年,ブンゼンは白金を炭素に変更しました.炭素は硝酸中で崩れやすいという問題があったのですが,ブンゼンは炭素を強く焼くことで硝酸中でも耐えられるようにしました.これによって,製造コストが安くなり,電流の持続する時間を長くすることができました.


彼はこの電池をたくさんつないで電気火花を生じさせられることも示しました.このとき,火花の明るさを測るために発明したのが光度計 (1844年) です.


ブンゼンは続くBreslau大学,Heidelberg大学時代にさまざまな金属塩を電気分解し,MgやCr, Al, Ca, Sr, Ba, Liなどを単離しました.この研究はロンドンのAugustus Matthiessenが頑張って手伝っていました.その仕事ぶりはブンゼンを唸らせるもので,Matthiessenはブンゼン電池を4個つなぎ,アルコールランプの炎の熱でいとも簡単に大きな板状のナトリウムを作ったというのです.


こうした電気分解による金属の単離はハンフリー・デービー(Humphry Davy, 1778-1829) に端を発しますが,それ以後,Antoine César Becquerel (1788-1878) がAg, Cu, Pb, Auについて行った研究があるばかりでした.ブンゼン以後は金属の電解製法が広く行われるようになり,やがて工業化されていきました.

2.ブンゼンバーナーの発明

Heidelberg大学の図書館 (1905年築)

さて,1852年にHeidelberg大学にやってきたブンゼンですが,そこで目にしたのは"大変歴史ある”設備でした.

Ruprecht 1世 (1309-1390)

Heiderberg大学は1386年,Ruprecht 1世の命によってパリ大学にならい,ドイツ国内最初の大学として設立されました.宗教改革 (1517年) に続く三十年戦争 (1618-1648) を転機として長い苦境の時代が訪れましたが,19世紀にはいると文教の精神に篤かったCarl Friedrich大公によって大学の復興と発展が図られました.


化学教室が独立したのはこの時期で,1817年のことです.教室の建物は最初法律学校の校舎を間借りしていましたが,通りに面したドミニコ会修道院の建物に移りました.


実験室は水が使える部屋をということで食堂を改修して使っていました.水道やガスはひかれていなかったので,水は近くの井戸から運び,ガスは炭火か,ベルセリウス(Jöns Jacob Berzelius, 1779-1848)のアルコールランプ,もしくはオイルランプをつかっていました.


ブンゼンの就任条件の一つは化学教室の新築でしたので,こうした実験設備の刷新なども手掛けることとなりました.工事は1854年からはじまり,1855年夏に竣工しました.このとき,石炭ガスを供給するガス管もようやく配備されることになりました*2
【参考】炎(11):ガス灯の普及


あるとき,春休みを終えた学生のHenry Enfield Roscoe (1833-1915) はイギリスのUniversity College Londonで使われていた"Gauzeバーナー"を持って帰ってきました.炭火に辟易していたブンゼンに見せたかったのかもしれません.

アルガン灯

Gauzeバーナーはもともとアミ・アルガン(Aimé Argand, 1755-1803) が1783年に発明したアルガン灯を改良したもので,ガスと空気をまぜて大きな炎を出すバーナーです*3


煙が立たないので使い勝手が良かったようですが,炎が大きすぎて加減することができず,また空気があまりに多く混ざるので温度が十分高くは上がらない,さらには炎が不安定であるという問題がありました.


そこでブンゼンは数々の試作を重ね,1855年,ついに混合する空気の量を自由に調節することができるバーナー,現在でいうところのブンゼンバーナー*4を開発しました.

ブンゼンバーナー(右下) Ann. Phys., 176: 43-88 (1857)より引用

筒の下砲に空気の入る穴があり,自由に開閉することができます.穴を大きく開けば高温*5の炎が燃え,穴を小さく開けば静かに燃えます.また,炎はは十分に透明かつ安定で,すすや煙は発生しませんでした


彼の発明したブンゼンバーナーは瞬く間に普及し,1860年代には化学実験のスタンダードになりました.


ブンゼンバーナーは1892年,ルーマニアの化学者Nicolae Teclu (1839-1916) によって改良され,現在の空気調節ネジガス調節ネジがあるかたちになりました.

Tecluバーナー

3.炎色反応の実験

ブンゼンが自身が開発したバーナーを使って行った研究の一つに,炎色反応に関するものがあります*6
【参考】炎(1):アルカリ金属


ブンゼンバーナーの最もすぐれた特徴は,炎が透明であるという点です.これは炎色反応を見るのに非常に適しています.ロウソクの炎は非常に不透明で,炎色反応を見るのに適していないことを考えるとわかりやすいですね.


ブンゼンは15種類金属元素について,その炎色反応を調べ,それぞれの色を記録しました*7


炎色反応の色が似ている場合,または異なる色の炎が重なっている場合はちょっと工夫が必要です.ブンゼン研究室の学生R. Cartmellは現代風に言うとカラーフィルターを使いました.


例えばインディゴブルーの溶液を用いると,ナトリウムNaの炎色 (589 nm) はほぼ吸収されて見えなくなります.Cartmellはそうすることで,リチウムLiやカリウムKの炎色を確認することができました.また,濃い青色のコバルトガラスを用いるとNaとLiの炎色が吸収され,Kの炎色だけを確認することができました.

Gustav Robert Kirchhoff (1824-1887, 左)とBunsen (右)

あるとき,ブンゼンは同僚のキルヒホッフ(Gustav Robert Kirchhoff, 1824-1887) *8と散歩していたときにこの実験の話をしました.すると,キルヒホッフは分光プリズムを使った方がより有効なのではないかと提案しました.分光プリズムを用いることで,炎色の発光波長を正確に調べることができます.


早速ブンゼンはこのアイデアを試してみることにしました.このとき彼が重視したのは,サンプル試料の純度です.不純物が含まれていると,どの発光波長がサンプル由来かわかりづらいですからね.


例えばCaの場合,大理石CaCO3を塩酸HClに溶かし,
 \mathrm{CaCO_3 + 2HCl \longrightarrow CaCl_2 + CO_2 + H_2O}

炭酸アンモニウム(NH4)2CO3を加えて沈澱させ,最後に沈澱したものに硝酸HNO3を加え,硝酸カルシウムに変換しました
 \mathrm{CaCl_2 + (NH_4)_2CO_3 \longrightarrow CaCO_3 + 2NH_4Cl}
 \mathrm{CaCO_3 + 2HNO_3 \longrightarrow Ca(NO_3)_2 + CO_2 + H_2O}

硝酸カルシウムはアルコールに溶けるので,これを使って再結晶を繰り返しました.そうして最後に炭酸アンモニウムで沈澱させ,これに塩酸を加えて塩化カルシウムを得ました.


他の金属も同様で,カリウムの場合は6-8回再結晶し,リチウムの場合は14回再結晶させました.大変ですね!


彼はこのようにして用意した純粋なサンプル試料を用いて炎色のスペクトル*9を測定しました*10

スペクトル測定装置(右下) Ann. Phys., 186: 161-189 (1860)より引用

炎の種類を水素炎やアルコールの炎に変えてみたり,炎の温度を変えてみたりして測定したところ,炎色反応のスペクトルは,炎の条件によらず一定であることを明快に示しました.


また,この方法だとそれぞれの金属をものすごく高い感度で検出することができます.塩素酸カリウムは1 μg,塩化カルシウムは60 ng,塩素酸ナトリウムは2.5 ngという極めて少量でも検出できました.これは驚異的な感度です.


このように,ブンゼンバーナーと分光プリズムを用いた検出器は非常に高感度で金属元素を検出することができるので,ブンゼンは色んな物質を調べてみることにしました.例えば各地の鉱泉だったり,地中海の水,スコットランド海岸の海藻ライン川ブドウ,バーデンの牧場の牛のコルシカ島長石,などです.

Bad Dürkheim Von Altera levatur - Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58075025

1860年,Dürkheimなどの鉱泉を調べていたところ,KやNaなどを取り除いた後に,これまで知られていない珍しいスペクトル線を発する物質があることを発見します.これは新元素の発見を示すものでした.


性質を調べてみたところ,アルカリ金属の性質を示していましたので,ブンゼンはこの新しい青空色のスペクトル線を発する第4のアルカリ金属セシウムCaesiumと名付けました.


さらに翌年には,ザクセン産のリシア雲母*11から暗赤色のスペクトル線を発する第5のアルカリ金属を単離し,ルビジウムRubidiumの名をつけました*12

Aulus Gellius (130頃-180頃)

彼は新元素の命名に際し,慣れ親しんだ古典を参照しました.Aulus Gellius (130頃-180頃) の著書『ギリシャの夜々の記』にこのような記述があります.

我が国では昔から大空の色も,また大空そのものをもcaesiaと言っていた.Caesiaはニギディウスによれば,ギリシャ人がフクロウの目と言っていたのにあたる.

そこで,彼は青空色のスペクトル線を発する金属にセシウム"Caesium"という名を与えたというわけです.


また,同じ本の別の場所にはこういう記述もあります.

Rubidusとは暗赤色,黒味のすぐれた赤色を言う.

そこで,彼は暗赤色のスペクトル線を発する金属にルビジウム"Rubidium"という名を与えました.


こうしてブンゼンバーナーの透明な炎から,研究は意外な大仕事に発展し,二つの新元素の発見者という名誉も担うに至りました.


ところがブンゼンにとってはそんな名誉はどうでも良かったようです.彼は「新しい元素を10も20も発見したとしても,それだけが能でもあるまい」と言って研究を打ち切り,自身の興味に従い光化学やアルカリ土類金属の研究へと軸足を移し,引き続き独創的な研究手腕を振るうことになりました.

4.おわりに

Bunsenの墓

ブンゼンは1899年8月16日,88歳で亡くなりました.埋葬式の日はちょうど夏休み中であったため大学関係者はあまり参列しなかったようですが,一般市民は多数参加し,盛大な式が執り行われました.


大学での追悼式は11月11日,大講堂で行われました.式の初めにはワーグナー(Wilhelm Richard Wagner, 1813-1883) の楽劇『神々の黄昏』(1876年)から《ジークフリートの葬送行進曲》が演奏されました.

www.youtube.com
ワーグナー作曲 楽劇『神々の黄昏』より《ジークフリートの葬送行進曲》

そして当時の化学教室主任であったTheodor Curtius (1857-1928) からは以下のような言葉が送られました.

神々の寵児ジークフリートの死を弔う奏楽の響きが今しも消え去った.今日われわれがここに,その冥福を祈るために集ったその偉人,思えばこれまた言葉の正しい意味において,神々のまな子であったと云うべく,ひじりにして壮なる大業の英雄児であったと云うべきである.

同時期に在職していた物理学のキルヒホッフ,生理学のヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz, 1821-1894) とともに「ハイデルベルグの三つ星」と称えられたブンゼンの功績は,今でもその輝きを失うことはありません.


1929年頃,ブンゼンの分析法をもとにHenrik Gunner Lundegårdh (1888-1969) が炎光光度法と呼ばれる,元素の定量分析法を開発しました.その際に燃料として使われたアセチレンについて次回は見てみましょう.



参考文献

"ULLMANN'S Encyclopedia of Industrial Chemistry" Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA (2002).
"XXXVI. On a photochemical method of recognizing the non-volatile alkalies and alkaline earths" R. Cartmell, Philosophical Magazine 16, 328-333 (1858).
"History of Analytical Chemistry" F. Szabadváry, Pergamon press (1966).
『分析化学の歴史』F. Szabadváry (1988).
『化學史談 III ブンゼンの八十八年』山岡望,内田老鶴圃 (1954).
『化學史談 IV ブンゼンの八十八夜』山岡望,内田老鶴圃 (1955).
『元素発見の歴史』M.E. Weeks, H.M. Leicester (2010).
”Ask the Historian" W.B. Jensen, Oesper Collections (2012).
"Nicolae Teclu (1839–1916): A pioneer of flame spectroscopy" G.E. Baiulescu, S. Moldoveanu, T.S. West, Talanta 30, 135-137 (1983).
”Photochemische Untersuchungen.” Bunsen, R. and Roscoe, H. Ann. Phys., 176: 43-88 (1857).
"Chemische Analyse durch Spectralbeobachtungen." Kirchhoff, G. and Bunsen, R., Ann. Phys., 186: 161-189 (1860).


目次 - 化学と歴史のネタ帳

*1:もちろん,Bunsen自身が命名したわけではありません.

*2:ロンドンではこの半世紀前に家庭用につかわれはじまめました.

*3:こうした実験用ガスバーナーの開発は1820年代からみられるようになりました.

*4:これももちろん,Bunsen自身が命名したわけではありません.

*5:Bunsenはまず炎の最高温度を求めました.その際,彼が使ったのはガスの組成,そして個々の成分の燃焼熱でした.求めた値は2300℃となりました.実際にはこの温度は高すぎます.いくつか原因は考えられますが,ひとつは正確な定圧モル比熱が知られていなかったことが挙げられるでしょう.

*6:それまでは吹管分析と呼ばれる方法で金属を分析していました.炎の内部に管の先端を差し込みガスを吸い,ガスを吹き出す際に火をつけ,その炎をサンプルに吹き付けるというものです.大変危なそうですが,Bunsenはこれがかなり得意だったようです.

*7:炎色反応は塩の揮発速度によって炎色反応を示す炎中の?位置が異なることも示しました.普段の理科実験でこうしたことを気にすることは少ないですが,気にしてみたら面白いかもしれませんね.彼は揮発速度について,メトロノームや振り子をつかって時間を測定しました.その結果,多くの金属についてハロゲン化物の揮発速度が最も大きかったようです.

*8:キルヒホッフの法則の人です.

*9:波長ごとの強度分布.

*10:このとき彼は器具に記入した目盛でそれぞれの特徴的なスペクトル線の位置を記録したのですが,このときはまだ波長と目盛は対応していませんでした.波長を用いてスペクトル線を表現するようになるのはW. Gibbs (1867年) 以降のことです.

*11:鉱山学校で講義をしていたイエズス会のNicolaus Poda神父(1723?-1798)によって発見されました.

*12:現在の周期表からいうと順番は逆ですが,これはBunsenの発見順です.