化学と歴史のネタ帳

身近にひそむ化学と歴史を,高校までの知識をベースに解説する化学史系ブログです.

アルカリの歴史(3):アンモニアソーダ法

前回紹介したルブラン法は,やがてエルネスト・ソルベイが開発したアンモニアソーダ法,別名ソルベイ法(またはソルベー法)に取って代わられました.

アンモニアソーダ法の工場 (New York, 1917)

アンモニアソーダ法とはどのような製造法なのでしょうか?


また,エルネストはその後研究所の設立や社会政策にも手を広げています.そこにはどのような思想があったのでしょうか?


今回はアンモニアソーダ法について,成立・普及の歴史としくみを見るとともに,その後のエルネストの活動の背景にあった思想についてもみてみましょう.



アルカリの歴史(1):炭酸ナトリウム
アルカリの歴史(2):ルブラン法
アルカリの歴史(3):アンモニアソーダ
アルカリの歴史(4):カリウム塩
アルカリの歴史(5):電気分解
アルカリの歴史(6):塩化アンモニウム
アルカリの歴史(7):アンモニアと石灰窒素
アルカリの歴史(8):ハーバー・ボッシュ法
アルカリの歴史(9):戦争とアンモニア

1.アンモニアソーダ法黎明期

ルブラン法が普及する一方で,他の方法もいろいろ検討されました.代表的なのが,アンモニアNH3を用いる製法です.


1811年,フランスの技師フレネル(Augustin Jean Fresnel, 1788-1827)*1塩化ナトリウムNaClの水溶液と炭酸水素アンモニウムNH4HCO3を反応させる戦略を提唱しました.
 \mathrm{NaCl + NH_4HCO_3 \longrightarrow NaHCO_3 + NH_4Cl }

炭酸水素アンモニウムは,アンモニアと水,二酸化炭素を反応させてつくることができます.
 \mathrm{ NH_3 + H_2O + CO_2 \longrightarrow NH_4HCO_3}


ロンドンのHarrison Grey DyarとJohn Hemmingは1838年で特許を取得し,これを工業規模で実践しました.
 \mathrm{NaCl + H_2O + NH_3 + CO_2 \longrightarrow NH_4Cl + NaHCO_3}
 \mathrm{2NaHCO_3 \longrightarrow Na_2CO_3 + H_2O + CO_2}

その後も改良が加えられていきますが,アンモニアをどんどん消費してしまうのが難点でした.


アンモニアの再利用法も考えられなかったわけではありません.例えば1852年にはW. Chisholmが石灰を使ってアンモニアを回収する方法で特許を取得しています.
 \mathrm{Ca(OH)_2 + 2NH_4Cl \longrightarrow 2NH_3+ CaCl_2 + 2H_2O}


このように,1850年代までにはアンモニアソーダ法で必要な化学反応自体は揃っていました.しかしながらそれらを採算の取れる形で実現した装置がなかったのです.


例えばこの頃までに成熟したルブラン法ではソーダ灰100 kgあたり塩が150 kg必要でしたが,1854-1858年にフランスでThéophile SchloessingとEugène Rollandが改良したアンモニア用いる方法でも180 kg必要でした.


発生する塩の廃棄物は再利用できないにもかかわらず課税されたのも痛い点でしたが,そもそも装置の設計が原因で十分にソーダ灰を得られなかったのも採算がとれない原因でした.


このように,原理としては有望にみえたアンモニアソーダ法は,実用性が低いかに見えました.

2.エルネスト・ソルベイの挑戦

ベルギーが産業革命期を迎えていた1830年代,Alexandre Solvay (1799-1889) は寄宿学校の職をやめ,採石場を運営し始めました.そこで商人として大成し,やがて採石場を売却したあとは塩の精製場を建設しました.その後はコーヒーなどを輸入する植民地貿易に手を出しました.

Ernest Solvay (1838-1922)

息子のエルネスト・ソルベイ(Ernest Solvay, 1838-1922)がと出会ったのは,父が建設した塩の精製場でした.


化学や物理に興味のあったエルネストは父親のすすめでリエージュ大学に通うことにしますが,病気のため学位取得は諦めざるを得ず,家業をつぐために会計を学ぶことにしました.しかし彼としては,平凡な人生には終わりたくなかったようです.

一生コーヒー商人でいるつもりはない!

エルネストはその後,叔父のFlorimond Semetが経営するガス会社に就職しました.工場長になることが期待されていたエルネストは,1859年にアンモニアとその利用を担当する工場長見習いの職を与えられました.


彼はこの時期 (20-22歳),専門誌を読んだりブリュッセルの産業博物館に通ったりして独学で化学を学びながらアンモニア水について深く研究しました.


1860年,彼は炭酸水素アンモニウムの製造実験中に,これが炭酸ナトリウムと反応して炭酸水素ナトリウムを生成することを"発見"します.そして翌年には塩化ナトリウム,アンモニア,炭酸を用いた製法を考案し,特許を出願しました.
 \mathrm{NaCl + H_2O + NH_3 + CO_2 \longrightarrow NH_4Cl + NaHCO_3}
 \mathrm{2NaHCO_3 \longrightarrow Na_2CO_3 + H_2O + CO_2}


彼は世界初のアイデアだと考えていたようですが,すでにみたように実際には何十年も前から研究されているものでした.


専門書を読んで,頻繁に博物館にいっていたのになぜ過去に開発されたアンモニアソーダ法を知らなかったのか,同時代の科学者は不思議だったようです*2


エルネストは「先行研究を調査する」という研究者の一般的な作法を学ぶ機会がなかったことを悔やんでいたので,もしかしたらそういったことが原因だったのかもしれません.


さて,もちろん彼は副生成物の利用も考えていました.


副生成物である塩化アンモニウムから,CaCO3を熱したあとにできるCaOを利用してアンモニアを回収するというものでした.
 \mathrm{CaCO_3 \longrightarrow CaO + CO_2}
 \mathrm{CaO + H_2O \longrightarrow Ca(OH)_2}
 \mathrm{Ca(OH)_2 + 2NH_4Cl \longrightarrow 2NH_3+ CaCl_2 + 2H_2O}

これなら原料を無駄にすることもありません*3.彼はこの方法でベルギー国内で特許を出願しました.


当時,ベルギーの特許法では出願から1年以内に発明を実施しなければ無効という決まりでした.エルネストは急いで兄をイギリスから呼び戻し,父親の資金援助を受けて一大事業を始めました.


エルネストは自分の製法には自信を持っていたようですが,工業的な成功をおさめるために課題となる,原料の供給管理,機械装置の設計・発注・修理,不履行業者へのクレーム,コストの計算と予測,運転経費の管理,といった細部については全く予測出来ていませんでした.


はじめはなかなかうまくいかず,資金調達もかなり苦しいものでした.親族は自殺を心配するほどでした.


しかしながら,ガラス製造業や製紙業に精通した地元の資産家たちの理解もあって徐々に状況は改善しました.


エルネストにとって幸いだったのは,アンモニアソーダ法がベルギーでは不利だったことです.どういうことでしょう?


ベルギーは地質的に石炭や石灰岩に豊富で,ガス工場からのアンモニア供給も期待できた一方,肝心の塩NaClが産出しませんでした.


そのため,大企業はあまり本腰をいれてアンモニアソーダ法の開発に取り組んでいませんでした.つまりは強力なライバルがいなかったわけで,エルネストたちのような弱小企業新規事業を立ち上げるのには都合が良かったのです.


調達した資金をもとに反応条件,装置の改良開発研究を慎重に続けました.一時は二酸化炭素を吹き込むステップでNaHCO3が析出してパイプをつまらせ,プロジェクトを中断するか,という判断に追い込まれたこともありました.
 \mathrm{NaCl + H_2O + NH_3 + CO_2 \longrightarrow NH_4Cl + NaHCO_3}


しかしエルネストは自分の製法を信じていました.絶体絶命のピンチにあっても,フランスやイギリスに自分の工場を建設することを夢見ていたのです.


資金調達は絶望的でしたが,装置を洗浄可能な構造に変更したことでパイプがつまる問題が解決されてついに成功の兆しが見え始め*4,1866年には1日1 t, 1867年には1.5 t, 1868年には3 tと生産量を上げることに成功しました.


こうしてエルネスト・ソルベイのアンモニアソーダ法,いわゆるソルベイ法が完成しました.


ソルベイ法は液体がベースとなる反応です.そのため,固体同士の反応が多いルブラン法よりも少ないエネルギーで炭酸ナトリウムを製造可能でした.


また,ルブラン法では問題となっていた副生物ですが,ソルベイ法で生じるのは特に臭くもない塩化カルシウムCaCl2です.これなら問題は起きなさそうですね.


1867年にはパリ万博で,無事自身の手法を世界に披露することができました.

アンモニアソーダ法の工場 (New York, 1917)

ソルベイ法の第二の工場は1872年,フランスのVarangévilleに建設され,ルブラン法が普及していたイギリスにも,Ludwig MondによってWinningstonに工場が建設されました.Winningstonの工場は,後に世界最大規模の工場に成長しました.


装置は着々と改良が続けられていました.1872年の改良がおそらく決定打となり,アンモニアソーダ法の優位性が揺るぎないものとなりました.日本も初めて参加した1873年ウィーン万博では,無事受賞を果たしています.


樹木の灰でほぼアルカリ需要が満たされていたアメリカにも1884年に導入され,ソルベイ法は世界各地に普及していきました*5


こうしてソルベイ法は徐々に普及し,1900年代初期にはルブラン法を圧倒しました.


1916年にはイギリスからルブラン法が消え,1923年にはドイツのStolbergにあった最後の工場が閉業しました.


3.ソルベイ法のしくみ

さて,それではソルベイ法,別名アンモニアソーダ法は一体どのような製造法なのでしょうか?


アンモニアソーダ法は,いくつかのステップに分けられます.


1. まず石灰岩CaCO3を加熱して二酸化炭素CO2を発生させます.
 \mathrm{CaCO_3 \longrightarrow CaO + CO_2}


2. 次に,ソルべー塔ともよばれる装置で塩化ナトリウムNaClアンモニアで飽和させた水溶液と二酸化炭素を反応させます.ソルベイが頑張って工夫したところですね.
 \mathrm{NaCl + H_2O + NH_3 + CO_2 \longrightarrow NH_4Cl + NaHCO_3}


3. 生成したNaHCO3をろ過・洗浄し,これを加熱します.これで炭酸ナトリウムが得られます.
 \mathrm{2NaHCO_3 \longrightarrow Na_2CO_3 + H_2O + CO_2}


4. 1で生成したCaOは水に溶かして水酸化カルシウムCa(OH)2にし,これを2で生成したNH4Clと反応させることでアンモニアを回収します.
 \mathrm{CaO + H_2O \longrightarrow Ca(OH)_2}
 \mathrm{Ca(OH)_2 + 2NH_4Cl \longrightarrow 2NH_3+ CaCl_2 + 2H_2O}


この中で鍵となるのは2番目のステップです.読み替えれば,水中でNaClとNH4HCO3を反応させてNaHCO3を生成する反応と考えることができます.
 \mathrm{NaCl + NH_4HCO_3 \rightleftharpoons NaHCO_3 + NH_4Cl}


NaCl,NH4HCO3,NaHCO3,NH4Clが共存するとき,どれが溶けきれずに析出するか?というのがポイントとなります.これは,それぞれの濃度に依存します.


多少見づらいのですが,Jäneckeが1907年に用いた図をみてみましょう*6.左下が純粋な食塩水で,右に行くほどNH4+が,上に行くほどHCO3-が増えます.

薄く塗ってあるのはNaHCO3が析出する領域を示しています.領域の境界線では,2つの物質が同時に析出します.また,では3つの物質が同時に析出します.例えば点Pでは,NH4HCO3,NaHCO3,NH4Clが同時に析出します.

食塩水(点A)からスタートした場合,CO2とNH3を等molずつ入れていくと点Bに向かって進みます.このとき,本来固体が析出するような濃度でも析出しない過飽和の状態で進むとしましょう.

点Bになった時点で析出しはじめるとすると,固体のNaHCO3 (点C)を析出しながら,溶液自体は右下に向かって進んでいきます*7


どこまで進むかは,はじめの水の量によって決まります.例えば点Aでは水が飽和食塩水に近い,塩1 molあたり水9 molくらいの状態だったとすると,CO2とNH3によって水が消費されて点Bの時点で,溶けた塩1 molあたりフリーの水が7 molくらいの状態になります.

点線は飽和状態を示します.今回の場合,右下に進んでいくと7 H2O点線とぶつかった時点で析出が止まります


もし点Bの時点で水がもっと少なかったらどうなるでしょう?


その場合,析出していく過程で溶液が点Pに達し,NH4Clも析出してしまいます


これは良くありません.なぜなら,3の段階で下のような2と逆の反応が進んでしまうからです.
 \mathrm{NH_4Cl + NaHCO_3\longrightarrow NaCl + H_2O + NH_3 + CO_2 }

そのため,NaHCO3は最大限析出させるけれども,NH4Clは析出しない点Pの手前で止まるように最初の水の量をコントロールしておくことが重要です.


さて,アンモニアソーダ法では食塩NaClを原料として用いるわけですが,その純度は大変重要です.食塩にはカルシウム塩CaCl2, CaSO4マグネシウム塩MgCl2が含まれています.


特にマグネシウム塩は食塩と複塩をつくり装置中に付着するため厄介です.
 \mathrm{MgCl_2 + 4NH_3 + 2CO_2 + 2H_2O + 3NaCl \longrightarrow MgCO_3 \cdot NaCl \cdot Na_2CO_3 + 4NH_4Cl }

少量なら保護膜として利用したこともあるようですが,多量では問題です.


どのようにしたらCa2+やMg2+を取り除けるでしょうか?


実はこの問題は,硬水を軟水化するLime-soda Ash法と全く同じです.
【参考】浄水(7):化学の力で軟水にする


アンモニアソーダ法では,食塩に含まれるCa2+やMg2+を取り除くため,Ca2+CaCO3として,Mg2+Mg(OH)2として沈殿させます.


Mg2+を取り除くには,水酸化カルシウムCa(OH)2水酸化ナトリウムNaOHを加えて除去します.
 \mathrm{Mg^{2+} + Ca(OH)_2 \longrightarrow  Mg(OH)_2 + Ca^{2+} }


Ca2+を取り除くには,炭酸ナトリウムNa2CO3,もしくは炭酸ガスCO2アンモニアNH3を加えて除去します.
 \mathrm{Ca^{2+} +Na_2CO_3 \longrightarrow CaCO_3  + 2Na^{+}}


こうしてみると,硬水の軟水化と同じですね.

4.塩安ソーダ併産法

ソルベイ法にはいくつか欠点があります.その一つが,原料となるNaClに関するものです.


ソルベイ法は水溶液中での反応ということもあり,水に溶けたNaClがそのまま捨てられてしまいます.また,副生成物であるCaCl2はそこまで利用方法があるわけではありません.


塩資源に恵まれない日本*8では,これは非常にもったいないことです.


そこで日本では,塩を有効活用する塩安ソーダ併産法(Dual process)の研究が1930年代から進められ,昭和25年頃から工業化されました*9

朝鮮窒素肥料 興南工場

塩安ソーダ併産法では,炭酸水素ナトリウムの水溶液に食塩とアンモニアから塩化アンモニウムNH4Clを生成します.
 \mathrm{ 2NaCl + 2NH_3 + CO_2 + H_2O \longrightarrow Na_2CO_3 + 2NH_4Cl }

こうして生成したNH4Clは肥料として活用することができます.


戦後食糧難だった日本では副産物である塩化アンモニウムを肥料として供給することで食糧増産に大きく貢献することになりました.

5.再びトロナへ

さて,このように隆盛を極めたソルベイ法ですが,ひょんなことから転機が訪れました.


世界各地で新たなトロナの鉱床が発見され始めたのです.


トロナからの炭酸ナトリウムの回収はシンプルです.とってきたトロナを6 mm以下に細かく砕き,300℃で加熱します.その後水にとかし,水に溶けない不純物を取り除いて再び加熱すれば,炭酸ナトリウム,正確にはセスキ炭酸ナトリウムNa2CO3・NaHCO3・2H2Oが得られます.


セスキ炭酸ナトリウム焼成することで炭酸ナトリウムに変換することができます.
 \mathrm{2(Na_2CO_3 \cdot NaHCO_3 \cdot 2H_2O) \longrightarrow 3Na_2CO_3 + 5H_2O + CO_2}

Magadi湖 By Fernando Anuang'a - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=108236879

例えばケニアMagadi湖*10に大きなトロナ鉱床が存在することがわかりました.日本ではマガヂ天然ソーダとして知られ,第一次世界大戦に波乱を巻き起こしました.


日本のソーダ工業はルブラン法の導入(1880年)によって始まりますが,第一次世界大戦が勃発(1914年)するまでは,海外のアンモニアソーダ法による高品質・低価格な製品には太刀打ちできませんでした.


第一次世界大戦中は輸入が困難になり国内ソーダ工業は急速に発展しました.大戦中には日本曹達旭硝子アンモニアソーダ法によるソーダ灰製造をはじめました.こうしてソーダ灰の価格は戦前の60-70円/tくらいだったところから380-390円/tまで上昇しました.


休戦を迎えると戦後不況が国内産業を襲いました.1921年時点ではソーダ灰の価格は140-150円/tまで下落しました.閉業に追い込まれた会社も多かったそうです.さらにそこに追い討ちをかけたのが,マガヂ天然ソーダでした.


もともと,日本はブラナー・モンド社からソルベイ法でつくられたソーダ灰を輸入していました.ところが1921年末,神戸の太陽曹達株式会社はイギリスのマガヂ曹達会社からマガヂ天然ソーダ灰を輸入しはじめたのです.この時起きたのが,価格競争*11です.


2社によるバチバチの価格競争によってソーダ灰の価格は一時60-70円/tまで低下します。これは第一次大戦前の水準です.そのため,日本の旭硝子日本曹達といったソーダ灰メーカーは大変な打撃を受けることになります.外国品の不当廉売を訴える陳情も行われましたが,政府は有効な手を打てませんでした.


結局価格競争は1924年にマガヂ曹達会社がブラナー・モンド社の傘下に入ることで収束しました.


その後,日本のソーダ工業は需要の拡大,および政府の助成により持ち直しました.そして満州事変に伴う金輸出の再禁止とともに日本に好景気が訪れると,急速に発展していきました.


一方,トロナ鉱床はアメリカでも発見されました.

Green River

1937年,ワイオミング州のGreen River付近でトロナ(Na2CO3・NaHCO3・2H2O)の鉱床が発見されました.はじめは重要視されませんでしたが,1944年以降掘削を続けていくと,トロナが大量に存在することがわかりました.のちの推定によると,おおよそ5 × 1010 t以上あったようです.


このようなトロナ鉱床の発見により,第二次世界大戦後のアメリカではソルベイ法からトロナを利用する方法に切り替わりました.アメリカの天然ソーダは不純物が少なく,良質であることが知られています.

6.エルネスト・ソルベイの科学信仰

さて,アンモニアソーダ法の開発に成功し莫大な利益を得たエルネスト・ソルベイは,その後どうしたのでしょう?


彼は科学に対し,ある種の信仰を持つようになりました.


それは「すべての現象は法則によって説明可能であり,そうした法則は必ず科学的手法により発見される」というものです.


現代からすれば非常に楽観的とも言える「科学=法則」への絶対的な信頼.それはアンモニアソーダ法開発時,苦難においても自分の製法を信じて疑わなかった姿勢に通じるところがあります.


化学者ベルテロ (Marcellin Berthelot, 1827-1907) が「今後,世界はもう謎を抱えないだろう」と述べたように,エルネストは「法則」が物理だけでなく,化学,生理学,そして社会のすべてを解き明かすものだと考えていました.


彼のそうした科学信仰は,生理学研究所1893年),衛生学・細菌学・治療学研究所(1894年),社会科学研究所(1899年),社会学研究所(1902年)など数多くの研究所を設立したことからも伺えます.


また,彼が1911年にホテルMétropoleで開催した物理学者のための国際会議*12*13*14は大変な好評を博し,現在でもソルベイ会議として続いています.

第1回ソルベイ会議

ソルベイ会議はしばしば物理学の歴史の重要な舞台となりました.例えば有名な第5回ソルベイ会議(1927年)には同年に不確定性原理を発表したハイゼンベルクをはじめとした錚々たる面々*15が参加し,アインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955)とボーア (Niels Henrik David Bohr, 1885-1962)の間で量子力学に関する解釈,いわゆるコペンハーゲン解釈について激しい議論がかわされました.


さて,エルネストの科学の眼差しは,一方で社会そのものにも向けられていました.


19世紀末ヨーロッパでは労働者階級の人権が争点となり,社会主義運動が巻き起こっていました.その運動はマルクス的な資本主義下での階級構造をベースとした思想に由来するものでしたが,エルネストは少し違った見方をしていました.


エルネストにとって人類とは組織化された化学反応であり,社会的集団の生産性,幸福を最大化する工程はまさに,化合物同士の反応を制御し,最終生産物の収率を最大化しようとするソルベイ法の開発と重なるものでした.


彼は労働者の活動を生理的,精神的なエネルギーの単位で捉えました.そして製品を生産する工場は,彼にとって個々のエネルギーを効率的に運用する熱機関のようなものであったと言うことができるでしょう.


彼は工場の生産性を最大化させるため,労働者の生活の改善に着手しました.具体的には労働者の疾病手当の導入,1日8時間労働制の徹底,有給休暇の付与,年金基金の設立などです.当時としてはかなり先進的でした.


こうした思想は1892年にブリュッセルのリベラル派上院議員に選出されて以降の政治活動からも見てとることができます.彼は科学の発展,大衆への教育によって個人の幸福,そして一つの有機体としての社会全体の生産性が最大化されると信じていました.


1922年に生涯を終えるまで続いたこうしたエルネストの一連の活動は,「科学の営みによって発見される物理的・化学的な法則によって生命の機能が明らかにされ,社会がどのように組織され,幸福が最大化されるのかが理解される,という信仰に基づいていた」という"法則"で理解されるのかもしれません.

7.まとめ

エルネスト・ソルベイがアンモニアソーダ法を完成させられたのは,周囲の支援と本人の不断の努力によるものだったと言って良いでしょう.そしてその成功体験は,彼の科学信仰にもつながっています.


こうしてベルギーで発明されたアンモニアソーダ法は日本をはじめとして世界中に普及し,その科学は社会に大きな影響を与えました.


次回は炭酸ナトリウムと似た,炭酸カリウムについてみていきましょう.

参考文献

"ULLMANN'S Encyclopedia of Industrial Chemistry" Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA (2002).
"Evaporites of the Wadi Natrun: Seasonal and Annual Variation iand its Implication for Ancient Exploitation" A.J.Shortland, Archaeometry 46 297-516 (2004).
"Sodium carbonate - From natural resources to Leblanc and back" J. Wisniak, Indian Journal of Chemical Technology, 10, 99-112 (2003)
"Manufacture of Soda" Te-Pang Hou, New York (1923, 1942).
"Der Ammoniaksodaprozeß vom Standpunkt der Phasenlehre" E. Jänecke, Z. angew. Chem. 20, 1559-1564 (1907).
“Salts, Acids & Alkalis in the 19th Century. A Comparison between Advances in France, England & Germany” D. Reilly, Isis, 42, 287-296 (1951).
“Soda ash, Solvay style” D.M. Kiefer, 11, 87-88 (2002).
"The Alkali Industry" J.R. Partington (1919).
“A theoretical and practical treatise on the manufacture of sulphuric acid and alkali, with the collateral branches” G. Lunge (1911).
“Solvay: History of a Multinational Family Firm” K. Bertrams, et al. (2013).
“The Solvay Councils and the Birth of Modern Physics” P. Marage, G. Wallenborn (1999).
“Ernest Gaston Joseph Solvay, a prestigious example of a scientific entrepreneur or labor omnia vincit improbus” I. Fechete, Comptes Rendus Chimie 19, 413-418 (2016).
“Einstein's witches' sabbath: the first Solvay council on physics” F. Berends and F. Lambert, Europhysics News, 42, 15-17 (2011).
”炭酸ソーダ-波乱の誕生と苦難の成長” 大谷杉郎,化学と教育,47, 173-177 (1999).
『ルブランの末裔』久保田宏,伊藤輪恒男,東海大学出版会 (1978).
『日本ソーダ工業百年史』日本ソーダ工業会 (1982年)
『酸,アルカリ及肥料 下巻』庄司務 (1937).
"塩安ソーダ法の発展と今後の問題" 有田秀男,化学工学, 35, 1201-1208 (1971).


目次 - 化学と歴史のネタ帳

*1:彼は光の回折現象の研究でも有名です.

*2:もっとも,一般的な化学書には記載はありませんでした.

*3:塩素は失われてしまいます.

*4:結果として,この構造こそがソルベイ法のユニークな工夫になりました.

*5:1882年にはドイツのLöwigによりFe2O3を用いて水酸化ナトリウムNaOHを生産する手法も開発されました. \mathrm{ Na_2CO_3 + Fe_2O_3\longrightarrow 2NaFeO_2 + CO_2}  \mathrm{ 2NaFeO_2 + H_2O \longrightarrow Fe_2O_3 + 2NaOH}

*6:約30℃だと状況がかなりシンプルになるので,そうしてみました.ちなみに,ちゃんと実際の工程を理解するには三角プリズム状に描いた相律図の方が良いです.ただしかなり難しくなります.

*7:約30℃だとほぼ対角線上に点Pが位置するようになります.

*8:日本では原料となる塩の生産に恵まれず,純度は75%程度と品質が粗悪でした.日清戦争により台湾が日本の領土になり,日露戦争により関東州が日本の租借地となると,これらの地域からの塩もつかわれるようになりましたが,それでも85%どまりでした.

*9:理論自体は1885年にH. Schreibによって創案されています.

*10:アルカリ性のため魚は住んでいませんが,フラミンゴは水中のピンク色の藻類を食べにやってきます.その藻類の色で,フラミンゴはピンク色になるようです.

*11:いわゆるダンピングです.

*12:物理化学で有名な化学者ネルンスト(Walther Hermann Nernst, 1864-1941)から持ちかけられ共同開催しました.参加者は24名に限られ,黒体放射など当時古典的物理学との齟齬が問題となっていた「放射理論と量子」について非公開の場でディスカッションが行われました.

*13:参加者にはノーベル賞を既に,もしくは後年受賞した人が11人もいました: ネルンスト (Walther Hermann Nernst, 1864-1941),マリ・キュリー(Maria Salomea Skłodowska-Curie, 1867-1934),アインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955),ラザフォード(Ernest Rutherford, 1871-1937),ローレンツ (Hendrik Antoon Lorentz, 1853-1928),ペラン(Jean Baptiste Perrin, 1870-1942),プランク (Max Karl Ernst Ludwig Planck, 1858-1947),ウィーン(Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien, 1864-1928),オンネス (Heike Kamerlingh Onnes, 1853-1926),ワールブルク (Otto Heinrich Warburg, 1883-1970),ド・ブロイ (Maurice de Broglie, 1875-1960).

*14:好評につき繰り返し開催されたソルベイ会議では物理学の歴史的に重要な解釈,決定,論争が度々行われたことや,錚々たるメンツで非公開の会議が行われたことから今では第一回会議は神話的な歴史扱いですが,当時新聞が報道したのは(会議の内容もさることながら)参加者のキュリー夫人と亡き夫の弟子ランジュヴァン (Paul Langevin, 1872-1946)との不倫という世俗的なスキャンダルでした.急に現実みが湧きますね.

*15:前年に波動方程式を提出したシュレディンガーアインシュタイン,ボーア,ディラック,ボルンなどが参加しています.