化学と歴史のネタ帳

身近にひそむ化学と歴史を,高校までの知識をベースに解説する化学史系ブログです.

滴定の歴史(4):酸化還元滴定の発明

中和滴定と並び,代表的な滴定方法が酸化還元滴定です.反応式を組み立てるのに苦労された方も多いと思います.


酸化還元滴定はどのように発明されたのでしょうか?

今回は酸化還元反応の歴史を踏まえつつ,酸化還元滴定開発の様子をみてみましょう.


滴定の歴史(1):中和滴定の誕生
滴定の歴史(2):中和滴定と水素イオン濃度
滴定の歴史(3):電極によるpH測定
滴定の歴史(4):酸化還元滴定の発明
滴定の歴史(5):ヨウ素滴定の開発
滴定の歴史(6):ヨウ素滴定の発展
滴定の歴史(7):過マンガン酸塩滴定
滴定の歴史(8):酸化還元指示薬
滴定の歴史(9):沈殿滴定

1.酸化還元反応とは?

酸化還元反応を用いた滴定を,酸化還元滴定と言います.酸化還元反応では化合物中の原子の酸化数が変化します.


例えば単体のCuの酸化数は0です.一方で,希硝酸と反応させて生じる硝酸銅Cu (NO3)2の場合,Cuの酸化数は+2です.
 \mathrm{3Cu + 8HNO_3 \longrightarrow 3Cu(NO_3)_2 + 2NO + 4H_2O}

結果として,銅は希硝酸と反応させると酸化数が0から+2へと変化します.


このような酸化還元反応の化学反応式は,半反応式を組み合わせて作ります.なかなか複雑なので苦労された方も多いのではないでしょうか?


例えば銅と希硝酸の反応では,まず以下のような半反応式を考えます.
 \mathrm{Cu \longrightarrow Cu^{2+} + 2\textit{e}^{-}}
 \mathrm{HNO_3 + 3H^{+} + 3\textit{e}^{-}\longrightarrow NO + 2H_2O}

ここで,Cuの式では電子e-が2個生成し,HNO3の式では電子e-が3個消費されていますね.


そこでe-がちょうど打ち消し合うようにCuの式を3倍,HNO3の式を2倍して足し合わせ,NO3-を補えば先程の反応式が完成します.
 \mathrm{3Cu + 8HNO_3 \longrightarrow 3Cu(NO_3)_2 + 2NO + 4H_2O}


このように酸化数の変化で酸還元反応を捉える考え方は,はじめからあったわけではありません.半反応式を組み合わせて作るのも,比較的最近になってからです.

Antoine-Laurent de Lavoisier (1743-1794)

18-19世紀の化学者であるラヴォアジエ (Antoine-Laurent de Lavoisier, 1743-1794) やベルセリウス (Jöns Jacob Berzelius, 1779-1848)らは,酸素との化合を中心に化合物を理解しようとしていました.


例えば硫酸鉄として現在はFeSO4やFe2(SO4)3で表される化合物は,FeO•SO3やFe2O3•3SO3として考えられ,酸化物をベースに考えられていました.


酸化物の中には酸素の数が異なる化合物があることが知られており,「酸化」されたり「還元」されることでその化合物間を行き来すると考えられていました.先の例で言えば,同じ硫酸鉄でもFeO•SO3やFe2O3•3SO3では酸化物中の酸素の数が異なっていますね.


酸素に注目した考え方では,酸化還元反応は以下のように書くことができます.
 \mathrm{Cu + O \longrightarrow CuO}
 \mathrm{N_2O_5 \longrightarrow 2NO + 3O}

この考え方では,硝酸は2HNO3 = H2O•N2O5,硝酸銅はCuO•N2O5と表せることに注意しましょう.


ここで,Cuの式ではOが1個消費され,N2O5の式ではOが3個生成されていますね.そこでCuの式を3倍し,N2O5の式をそのまま足せば以下のようになります.
 \mathrm{3Cu + N_2O_5 \longrightarrow 3CuO + 2NO}

N2O5とH2Oを補うと,
 \mathrm{3Cu + 4H_2O \cdot N_2O_5 \longrightarrow 3CuO \cdot N_2O_5 + 2NO + 4H_2O}

となります.実質はじめの式と同じになりましたね.


19世紀に入り酸素を含まないハロゲン化合物などが多く知られるようになると,必ずしも酸素は必要なさそうだという雰囲気になってきました.もはや「酸」化ではないですが引き続き「酸化」「還元」という表現は生き残り,その意味が拡張されていきました.

Friedrich Wilhelm Ostwald (1853-1932)

例えば19世紀末,イギリスの化学者*1やオストワルト (Friedrich Wilhelm Ostwald, 1853-1932)は,酸化還元反応電荷を持った物質のやり取りだと考えました.


20世紀に入るとCavenやLander,そしてJoel Henry Hildebrand (1881-1983) *2は,酸化還元反応とは原子価 (valence)が増減,つまり原子の手の数が変化する反応だと考えられるようになりました.


このような考え方は酸化還元反応の書き方にも反映されました.


例えばCuからCu(HNO3)2の変化ではCuの手の数は「0本から2本へ」と2本増え,HNO3からNOではNの手の数は「5本から2本へ」と3本減っています.
 \mathrm{\text{「}Cu  \longrightarrow Cu(NO_3)_2\text{」}}
 \mathrm{\text{「}HNO_3 \longrightarrow NO\text{」}}

手の数の増減を一致させるため,Cuの式を3倍,HNO3の式を2倍して足し合わせ,諸々の辻褄を合わせれば以下のように今風の反応式が出来上がります.
 \mathrm{3Cu + 8HNO_3 \longrightarrow 3Cu(NO_3)_2 + 2NO + 4H_2O}

結果は同じでも,やっていることは微妙に違うのが面白いところですね.大体1920年代まではこのような書き方が主流でした.


一方1912年,G. Buchnerは酸化還元反応においては電子のやり取りが発生しているという説を主張しました.1914年にはHarry Shipley Fryも同様の考え方をもとに,電子を放出するものは還元剤,電子を受け取るものは酸化剤としました.現在の考え方そのものですね.


このような考え方を受け,1927年にはイオン式半反応式を書いてから,それを足し合わせましょうというアプローチが提案されました.化学教育の専門誌であるJournal of Chemical Educationに掲載されました.
 \mathrm{Cu^{\circ} - 2\epsilon \longrightarrow Cu^{++} }
 \mathrm{HNO_3 + 3H^{+} + 3\epsilon \longrightarrow NO + 2H_2O}

電子を矢印のどちら側に置くかは異なりますが,現在の形にだいぶ近づきました.


あとは通常通り,電子を打ち消すようにCuの式を3倍,HNO3の式を2倍して足し合わせれば完成です.
 \mathrm{3Cu + 8HNO_3 \longrightarrow 3Cu(NO_3)_2 + 2NO + 4H_2O}


こうした反応式は,もともとはイオンが登場する電池などの分野で現れた表記法でしたが,最終的にイオンがでてこないような反応式でもイオン式を用いた半反応式をはじめに考える方が便利だろうということで提案されました.


酸化数 (oxidation number) という言葉が登場するのは実はそれよりも少し遅れ,1938年のことです.アメリカの化学者ラティマー (Wendell Mitchell Latimer, 1893-1955) が自著『The oxidation states of the elements and their potentials in aqueous solutions』で使用しました.


当時原子価 (valence) は有機化学では単純に結合の数を指し示すものとして使用されていました.そのため原子の電荷を表すのには”polar number”という別の用語*3が使われていました.


”polar number”は実験的に調べることはできませんでしたが,結合している原子間で電子がどのようにシェアされているかを逐一調べることでとりあえず決定することができます*4.例えば以下のように硫酸H2SO4では,Sからは極性結合 (polar bond) が6本出ているので+6,Oはどれも極性結合を2本受け取っているので-2です*5

しかしこの方法では構造によって”polar number”が変化します.例えば以下のような構造を考えると,Sは極性結合を6本出し,1本受け取っているので+5です.

これは面倒くさいですね*6


そこでラティマーは,とりあえず機械的にOは-2として計算するのはどうだろうかと提案しました.この場合,H2SO4では構造がどうであれ関係なくSは+6です.


このほうが単純で計算しやすいですね.ラティマーはこれを酸化数と呼びました.この考え方は今でも受け継がれています.


このように,酸化還元反応は様々な化学者たちの解釈を経て,現在のように「酸化は酸化数が増えること,還元は酸化数が減ること」という形に落ち着きました.


ちなみに酸化還元反応における電子の移動という考え方はあくまで解釈のひとつで,実態を反映しているわけではありません酸化還元反応の多くの場合,実際には電子は単独では移動していません.


例えばCe4+とFe2+の以下の反応では,
 \mathrm{Ce^{4+} + Fe^{2+} \longrightarrow Ce^{3+} + Fe^{3+}}

実際には配位しているH原子が電子と一緒に移動しています

反応によってはハロゲン原子酸素原子,もしくはOHのようなかたまりが移動したりします*7


このように実際に起きている現象は多様で個々の反応や条件に依存しますが,最初から現実に忠実に学ぼうとすると,原理を統一的に理解することは困難です.


そこで最初に酸化還元反応を習う際は,便宜的に電子の移動(と酸化数・電荷の変化)として反応を理解することになっています.実際そのほうが統一的に理解できて便利ではありますよね.

2.漂白と酸化還元滴定

酸化還元反応を使うと,酸化されるもの,あるいは還元されるものの量を調べることができます.こうした手法を酸化還元滴定と呼びます.

酸化還元滴定は,漂白と深い関係があります.
【参考】洗濯(7):塩素漂白の誕生


18世紀末,フランスの化学者ベルトレー (Claude-Louis Berthollet, 1748-1822) は塩素の漂白作用について研究していました*8

Claude Louis Berthollet (1748-1822)

その結果,塩素ガス中に布を数時間置いておくだけで,長時間日光にさらしたのと同等の漂白効果が得られることがわかりました.ベルトレーは1785年,塩素を布の漂白に使うことを提案しました.


はじめは塩素ガスを水にとかしただけの溶液を使っていたので,酸性になって平衡が左に偏ると塩素ガスを発生させ,危険でした.
 \mathrm{Cl_2 + H_2O \rightleftharpoons H^{+} + Cl^{-} + HClO }


そこで1786年頃から塩素ガスが発生しにくい漂白液(eau de Javelle) が使われ始めました.
 \mathrm{Cl_2 + 2KOH \longrightarrow KOCl + KCl + H_2O}

これならアルカリ性に偏っていますので,塩素ガスが発生する心配も少ないですね.


さて,このように普及した塩素漂白ですが,漂白液による漂白においては溶液がどのくらい強い漂白力を持っているか?つまりその濃度が重要でした.薄すすぎても効果はありませんが,濃すぎると塩素ガスが発生する危険があります.


漂白力はどのように測定したら良いでしょう?


塩素漂白の普及に尽力したベルトレーは,塩素ガスの水溶液の漂白力を測るためにインジゴ・ブルー*9を用いる方法を提案していました*10

インジゴ・ブルー

このアイデアは1788年頃,François Antoine Henri Descroizilles (1751-1825)*11 が実際に測定法として確立しました.

Descroizillesの用いた実験器具.一番左が"burette"もしくは"Berthollimeter",その右が"pipette". DESCROIZILLES, F. A. H. Journal des Arts et Manufact. 1, 256 (1795) より引用

まず,漂白液を目盛付き*12のガラス容器に一定量用意します.今で言うメスシリンダーに似ています.目盛りをつけるのにはフッ化水素酸が用いられました.


のちに”ビュレット (burette)”と呼ばれることもありましたが,彼はこれを,ベルトレー (Berthollet) に敬意を表してなのか,もしくはロラン夫人のいうように権力に媚びる性格によるものなのか,"Berthollimeter"とも呼びました.


ここに徐々に硫酸にとかした0.1%インジゴの溶液を滴下します.はじめは滴下しても溶液を振れば脱色されますが,やがて色が消えなくなります.ここでストップです.最終的にどれくらいの量のインジゴ溶液を漂白できたか?を調べることで,漂白力を測定できます*13


おそらくこれが,世界初の酸化還元滴定です.


Descorizillesは,ベルトレーの弟子Grancourtがルーアンで行った漂白液のデモンストレーション*14に居合わせ,漂白に興味を持ったようです.彼は漂白液中の次亜塩素酸の濃度が重要であることを突き止め,漂白力を測定する方法を確立したという流れのようです.


Descorizillesが行った酸化還元滴定では,インジゴの脱色に必要な漂白液の体積を測定していました.一方ベルリンのG.C. Weinligは,1792年,興味深い測定方法を報告しています.


まず.一定量のインジゴ溶液が入ったガラス管を用意します.そこに8倍量の漂白液を加えて混ぜ,しばらく放置します.完全に脱色されるまで,何分かかったかという時間を測定します.15分以上かかってインジゴの色が消えたら,漂白液として使用できる濃度になっていると判断します.


時間測定ですので滴定とはちょっと毛色が違いますが,原理は似ていますね.


こうしたDescroizillesらが開発したインジゴによる漂白力の測定は”ブルーテスト”として普及しました.

コチニールカイガラムシ By Zyance - Own work, CC BY-SA 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1781846

もちろん色のついたものでしたら原理的にはなんでも使用できます.例えば1789年にJames Watt (1736-1819) はインジゴのかわりにコチニールを使用しました.原理についてはほぼ同じです.コチニール塩基性の漂白液にも問題なく使用できるのが利点でした.他にも,マコンの赤ワインを使用するものも提案されました*15


さて,Descroizillesの測定法はインジゴを基準としていました.しかしながら当時のインジゴは品質にばらつきがあったため*16,正確な漂白力を安定して測ることができませんでした.

Joseph Louis Gay-Lussac (1778-1850)

そこでフランスの化学者ゲイ=リュサック (Joseph Louis Gay-Lussac, 1778-1850)はJean Joseph Welter (1763-1852) の研究をもとに,1824年,漂白力のより厳密な定量測定方法を確立しました.

Gay-Lussacの用いた実験器具 GAY-LUSSAC, J. L. Ann. chim. phys. 26, 162 (1824) より引用

彼はまず,3.980 gのMnO2を用いて0℃,1気圧で1 Lの塩素ガスCl2を用意しました.
 \mathrm{ MnO_2 + 4HCl \longrightarrow MnCl_2 + Cl_2 + 2H_2O }

次に,この塩素ガスを石灰水に通し,
 \mathrm{2Ca(OH)_2 + 2Cl_2 \longrightarrow Ca(ClO)_2 +  CaCl_2 +2H_2O }

この溶液によってちょうど漂白されるような10 Lのインジゴ溶液,いわゆる標準液を用意しました.これにより元のインジゴがどんな品質であっても安定して漂白力を測定できるようになりました*17


さらに,彼が改良したガラス器具であるピペットビュレットを用いて,先程のインジゴ溶液に漂白液を滴下することで漂白力をより正確に測定することができました*18.この論文では,ピペットやビュレットといった単語が分析化学用語として初めて登場しました.

Gay-Lussacの用いた実験器具 GAY-LUSSAC, J. L. Ann. chim. phys. 26, 162 (1824) より引用

こうした方法の登場により,実験テクニックさえあれば漂白力を正確に測ることができるようになりました.しかし操作に慣れていない人にとってはちょっと難しかったようです.


そこでゲイ=リュサックは1835年,亜ヒ酸H3AsO3を標準溶液とする酸化還元滴定を開発しました.
 \mathrm{2H_3AsO_3 + Ca(ClO)_2 \longrightarrow 2H_3AsO_4 +  CaCl_2 }

このとき,指示薬としてインジゴ溶液を2滴だけ入れていました.


先程と違うのは,あくまでメインの酸化還元反応は亜ヒ酸H3AsO3とサンプル溶液Ca(ClO)2の反応であり,インジゴの色変化は終点の確認に使用した点です*19.まず亜ヒ酸が酸化され,全部亜ヒ酸が反応しきってからインジゴが酸化されるという性質を利用しています.


ここで初めて,インジゴは酸化還元指示薬として用いられた,と言えます.


最後の色変化にはインジゴの酸化に必要な分サンプルが消費されますが.これを補正するために指示薬のみを酸化するのに必要な分,ちゃんと差し引きました.指示薬の補正ですね.


このようにして酸化還元滴定の基礎ができあがりました.

3.まとめ

漂白産業で誕生した酸化還元滴定は,その後様々な化学工業の基本技術として発展していきました.


次回はまず,ヨウ素滴定の歴史をみてみましょう.

参考文献

"History of Analytical Chemistry" F. Szabadváry, Pergamon press (1966).
"Ask the Historian" W.B. Jensen, Oesper Collections (2012).
Wendell M. Latimer, “The oxidation states of the elements and their potentials in aqueous solutions” (1938).
William C. Bray and Gerald E. K. Branch “Valence and Tautomerism”, JACS, 35, 1440-1447 (1913).
"Ueber Alkalimetrie und Chlorometrie" Dr. Ure, Polytechnischen Journals, 96, 32-46 (1845).
"Sun un nouveau moyen de titrer le chlorure de chaux" Dr Penot. Bulletin de la Société industrielle de Mulhouse, 118, 246-253 (1852).
"Sur les combinaisons de l'iode avec les substances végétales et animales", M.M. Colin and H. Gaultier de Claubry, Annales de chimie, 90, 87-100 (1814).
"On the Origin of the Blue Color in The Iodine/Iodide/Starch Supramolecular Complex" S. Pesek, et al. Molecules, 27, 8974 (2022).
"Nouveau procédé de dosage de l'oxygène dissous dans l'eau" M.G. Linossie, Bulletin de la Société chimique de Paris, 5, 63-66 (1891).
"Ueber einige new Cerverbindungen" L. Th. Lange, Journal für Praktische Chemie, 82, 129-147 (1861)
"The balancing of oxidation-reduction equations. II" E.R. Jette, Journal of Chemical Education, 5, 1158-1167 (1927).
“Conceptual Considerations in Molecular Sciences” D.T. Sawyer, Journal of Chemical Education, 82, 985-986 (2005).
"ヨウ素デンプン反応の安定性" 小山彰, 新潟県立教育センター研究報告, 53, 55-62 (1982).
『ハリス分析化学』D.C. Harris, 化学同人 (2017).
『分析化学の歴史』F. Szabadváry (1988).
W.H. ブロック『化学の歴史』朝倉書店 (2006).

目次 - 化学と歴史のネタ帳

*1:1884年にはイギリスの化学者M.M.Pattison Muirが"negative radicle"の付加による化合物全体の"positive radicle"の減少という形で表現し,1907年にはCavenやLanderが「酸化とは,酸素や電気的に陰性な原子あるいは"radicle"の付加,もしくは水素などの除去による"active valency"の増加である」と表現していました.

*2:1918年,Hildebrandは「酸化とは"valency"の増加で,還元とは"valency"の減少である」と表現しました.

*3:1913年にW.C. BranchやG. Brayが導入しました.

*4:無極性結合が思ったよりも多く存在することが受け入れられてからは,余計事態がややこしくなりました.

*5:1913年時点での考え方です.当時はLewisによる結合理論もまだ発表されておらず,極性結合が中心的な考え方でした.

*6:また,極性結合以外に無極性結合も考えられるようになると余計ややこしいことになりました.

*7:他にも求核置換反応やラジカル反応があります.

*8:塩素の漂白効果については1774年にシェーレが花の色を脱色することを発見しています.

*9:インド産のインジゴは古くから高級品としてヨーロッパへ輸入されてきました.16世紀には西インド諸島で,18世紀末にはインドのベンガル地方でインジゴのプランテーションが始まり,大量のインジゴがヨーロッパに供給されるようになりました.この時期は,ちょうどそのような時代です.

*10:インジゴが塩素により漂白されることは1780年にベリマン(Torbern Olof Bergman, 1735-1784)が報告しています.ベルトレーは粉末のインジゴブルーを用意し,これを漂白するのに必要な漂白液の量を求める,というやり方を提案していました.

*11:彼はまた,コーヒー用の金属製フィルターを作ったことでも知られています.

*12:目盛りは,一定量の溶液を吸うことができる"pipette"と呼ばれるガラス器具で吸った溶液を順に注ぐことによってつけられました.

*13:ベルトレーはこのインジゴ溶液に漂白液を滴下するという逆の方法を考えていたようです.

*14:実際には素材の一部しか漂白されないなど,デモンストレーションそのものはうまく行かなかったようです.

*15:オパール色に変化したそうです.

*16:産地の違いで言えば,グアテマラ産のほうがサント・ドミンゴ産よりも着色物質(インジゴ)が多く含まれていたようです.

*17:実験の詳細については若干疑問が残るものの,詳しいところはわからないのでそのまま載せました.

*18:実際には漂白液の滴下速度にも依存しましたので,1835年に亜ヒ酸にインジゴ溶液を2滴加えた溶液を用いる滴定手法を考案しました.この手法では先にインジゴよりも先に亜ヒ酸が酸化還元反応で消費されることを利用し,インジゴの色が消えるポイントを終点として利用しました.ここでは,インジゴ溶液は酸化還元滴定の指示薬として用いられているとも言えます.

*19:先程はメインの反応がインジゴとの反応でしたね.