ヨウ素滴定には大抵の場合,チオ硫酸ナトリウムが相棒として登場します.
チオ硫酸ナトリウムを使うようになったのはなぜでしょうか?
今回は写真撮影や水質調査を題材に,チオ硫酸ナトリウムとヨウ素滴定の歴史をみていきましょう.
滴定の歴史(1):中和滴定の誕生
滴定の歴史(2):中和滴定と水素イオン濃度
滴定の歴史(3):電極によるpH測定
滴定の歴史(4):酸化還元滴定の発明
滴定の歴史(5):ヨウ素滴定の開発
滴定の歴史(6):ヨウ素滴定の発展
滴定の歴史(7):過マンガン酸塩滴定
滴定の歴史(8):酸化還元指示薬
滴定の歴史(9):沈殿滴定
1.写真撮影とチオ硫酸ナトリウム
チオ硫酸ナトリウムNa2S2O3はヨウ素滴定でよく出てくる不思議な物質です.フランスのMathurin Joseph Fordos (1816-1878)とAmadée Gèlis (1815-?) が1843年,ヨウ素滴定に用いました.
チオ硫酸塩は発見からしばらくは用途もなく忘れられていましたが,1839年,フランスのダゲール (Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787-1851)が写真に用いる方法を考案したことで再び注目されるようになりました.
写真製法に関するチオ硫酸ナトリウムの重要な性質は,もともと1819年にイギリスの天文学者ジョン・ハーシェル (John Herschel, 1792-1871) *1 が見出していました.
彼はある時,数日間放置していた硫化カルシウムCaS水溶液が苦くなっていることに驚きました.
そして生成した物質の組成をつきとめ,チオ硫酸塩の合成法として亜硫酸塩に硫黄を加えて加熱する方法を考案しました.
これは今でも用いられている合成法です.彼はCa, K, Naをはじめとして16種類のチオ硫酸塩の性質を研究しました.
ハーシェルはそのうち,チオ硫酸ナトリウムNa2S2O3*2について重要な性質を記録しています.それは,塩化銀AgIがチオ硫酸ナトリウム溶液に,「ほとんど砂糖が水に溶けるように」いとも簡単に溶けるという性質です.これは後の写真製法において非常に重要な発見でした.
彼は天王星を発見したことで知られる父親の観測研究の続きを行う合間にこうした実験を行い*3,1819年に報告しました.
報告から20年後の1839年1月7日,フランスのジオラマ館*4の経営者ダゲールが世界初の実用的な写真撮影法,ダゲレオタイプを発表しました.
ダゲレオタイプのしくみはこうです.まず銀メッキした銅板を磨き,ヨウ素を蒸着させます.
光があたらないようにカメラに取り付け,レンズを通して光を板上に結像させます.すると,結像した光の強弱に応じてヨウ化銀AgIが分解され,銀クラスターを生じます.この段階ではまだ像は見えず,潜像と呼ばれます.
水銀蒸気をあてると,安定な合金(アマルガム)を生成します.これにより像が見えるようになります.いわゆる現像です.
このままだと残ったAgIに光があたるとまた分解されてしまいます.そのため,この状態で像を固定する必要があります.そこでダゲールは濃い食塩水で洗い流していました.
ダゲレオタイプの報を聞いたハーシェルをすぐに実験をはじめました.頭にあったのは,自分が20年前に調べたチオ硫酸塩です.手元にあったチオ硫酸ナトリウムNa2S2O3で洗ってみたところ,効果的にヨウ化銀を洗い流すことができました.
同年1月30日のことでした.
かくして長らく日の目を見なかったチオ硫酸ナトリウムは一気に歴史の表舞台に返り咲きました.
さて,チオ硫酸ナトリウムは写真撮影に欠かせない化学物質となったわけですが,保存中に光や温度によって分解しやすいのが問題です.使う際には,純度を正確に評価する必要があります,
FordosとGèlisが注目したのは,ヨウ素がチオ硫酸を定量的に酸化するという事実です.ヨウ素1個でちょうど2個のチオ硫酸を酸化します.
ヨウ素の溶液で滴定しているので,ヨウ素酸化滴定(iodimetry)ですね.
チオ硫酸ナトリウムNa2S2O3に,硫酸塩Na2SO4や亜硫酸塩Na2SO3が含まれているとしましょう.
まず溶液をNo.1からNo.4に4等分します.
No.1には塩化バリウムBaCl2を加えてSO42-を沈殿させます.
これで硫酸塩Na2SO4の量がわかります.
No.2には炭酸マグネシウムを加えた後,ヨウ素で滴定します.亜硫酸とチオ硫酸が両方反応します.
滴定は,過剰のヨウ素とヨウ化物イオンが反応して黄色っぽいI3-が生成したらストップです*5.
滴定の際,炭酸マグネシウムを加えていないと液性が酸性に傾き,チオ硫酸が不均化してしまいます.
ですので,炭酸マグネシウムを加えておき,生じたHIを中和させる必要があります.
ヨウ素で滴定した後,塩化バリウムを加えます.すると先程亜硫酸塩から生成したSO42-が沈殿します.
沈殿した硫酸バリウムの量から亜硫酸塩の量がわかり,使用したヨウ素の量から亜硫酸塩に消費されたヨウ素の量を引くことで,チオ硫酸塩の量がわかります.
今回の条件ではNo.3, 4の操作は必要ありませんが,No.4は少し面白いので紹介しておきましょう.
No.4は溶液中に含まれるすべての硫黄化合物を定量するのに用いられます.操作はシンプルで,塩素ガスCl2を通してすべてSO42-にして,
塩化バリウムを加えてSO42-を沈殿させます.
強引ですね!塩素とヨウ素は酸化力に違いがあるため,このような使い分けができたとのことです.
2.ヨウ素滴定の発展
ヨウ素滴定法の発展に大きく貢献したのは,実験用バーナーの開発でも有名なブンゼン(Robert Wilhelm Bunsen, 1811-1899)です.
【参考】炎(13):ブンゼンバーナー
ブンゼンは1853年,ヨウ素滴定により18種類以上の酸化性物質を定量する論文を報告しました.一本の論文でこんなにまとめて報告しているのは驚異です.
彼はヨウ化カリウム溶液KIを滴定剤として酸化性物質のサンプル溶液を滴定しました.
次に生成したヨウ素を亜硫酸HSO3標準溶液で滴定しました.
はじめにヨウ化物イオンI-で滴定しているのでヨウ素還元滴定(iodometry)です.ヨウ素還元滴定では現在でも一度ヨウ素を作らせて,それをまた滴定してという二度手間,いわゆる逆滴定をわざわざ行います.
理由としては,検出にはヨウ素デンプン反応が使われることが挙げられます.ヨウ素還元滴定では滴定のはじめからヨウ素が生成するので,終点が判断しづらいのです.これ以上青紫色にならない点というのは判断しづらいですよね.
終点付近でのみ*7ヨウ素デンプン反応が起きて呈色するヨウ素酸化滴定とは大きな違いです.
他の酸化性物質は,一度濃塩酸と混ぜて加熱して反応させ,発生した塩素を定量していました.
濃塩酸でないと進まない反応もあることに注意しましょう.
なぜ直接定量しなかったのかは謎ですが,初めにトライしてみて上手くいかず諦めてしまったのかもしれません.通常のヨウ素還元滴定では,塩酸と反応させずに直接滴定します.
ブンゼンが塩素を定量する際に標準溶液として使用したのは亜硫酸溶液ですが,これは酸化されたり揮発したりと不安定だというデメリットがあります.
一方でKarl Heinrich Schwarz (1824-1890) は同年,ヨウ素*8の滴定にチオ硫酸ナトリウムを使用しました.
チオ硫酸ナトリウムは揮発したりしないので,Mohrは1855年に自著で逆滴定にはチオ硫酸ナトリウム溶液の使用をオススメしています*9.
現在知られているヨウ素還元滴定でも,逆滴定にはチオ硫酸ナトリウムを用います.
ちなみにチオ硫酸ナトリウム溶液は放置していると空気中の二酸化炭素CO2を吸って酸性に偏り,ゆっくりと硫黄などに変化してしまいます.
そこで通常は,炭酸ナトリウムNa2CO3を入れておき,pH変化を和らげておきます*10.
一般的にチオ硫酸ナトリウムはそこまで純度が高くないので,ふつうはヨウ素溶液で標定しておきます.
しかしヨウ素は正確に量り取ろうとしてもすぐに昇華により失われてしまうので濃度が正確なI2溶液をつくることは困難です.
そこでハンガリーの化学者タン (Károly Than, 1834-1908) は1860年,KH(IO3)2とKI ,および酸によりI3-溶液を調製し,これを標定に使用する方法を考案しました.
KH(IO3)2は水溶液から再結晶を2回繰り返すだけでじゅうぶん純粋な結晶を得られるのが利点でした.
ちなみに現在では,KH(IO3)2のかわりにKIO3を使用します*11.I3-溶液は空気中で酸化されるので,すぐに使用します*12.
オーストリア帝国の一員だったハンガリーで産まれたタンはウィーン大学で薬学と化学を学び,ブンゼンのもとで研究を行いました.1848年革命以降禁止されていたハンガリー語が1860年に解禁された頃,タンは母国ハンガリーのブダペスト大学の教授に就任しました.
タンはハンガリー語の化学雑誌『Magyar Chemiai Folyóirat』を創刊に尽力するなど,母国での化学の普及に積極的に力を注ぎました.彼は滴定法の改良のほか,ガス分析など物理化学の分野で大きな貢献を果たしました.
そして次に見るように彼の弟子であるウィンクラーが,ヨウ素滴定の新たな応用法を開発しました.
3.溶存酸素とウィンクラー法
19世紀ヨーロッパでは水のトラブルが大きな問題となっていました.
例えばイギリスは海外に広大な植民地を得て世界中に貿易を展開していましたが,植民地インドで発生したコレラが1830-40年代にイギリス本土に上陸し,猛威を振るいました.
【参考】浄水(3):ろ過や塩素による消毒
フランスやドイツでも同時期に大流行しました.
コレラはご存知のように,コレラ菌の感染により発症します.当時はまだその存在は知られていませんでしたが,大流行の裏には,何か原因があるはずだと考えられていました.
やがてロンドンの医師ジョン・スノウ (John Snow, 1813-1858) がテムズ川が感染拡大の原因であることを突き止めました.生活用水として利用していたテムズ川が病気の原因となる物質(今で言うコレラ菌)で汚染されていたのです.
テムズ川は結局水の汲み出しが禁止されましたが,他の水が安全かどうかはわかりません.自分の井戸水が汚染されているかどうかはどのように調べれば良いのでしょうか??
水中に含まれる酸素(溶存酸素)は,水中に細菌がたくさんいるほど減る傾向にあります.これは,細菌が有機物を分解する際に酸素を消費するためです.
そこで水が細菌によってどれくらい汚染されているかを知るためには,溶存酸素を定量するのが有効です.
先ほどのタンの学生となったウィンクラー (Lajos Winkler, 1863-1939) が学位を取ろうとしていた時点で,すでにいくつか溶存酸素を測定する方法は報告されていました.中には過マンガン酸塩滴定を用いるものもありました.
【参考】滴定の歴史(7):過マンガン酸塩滴定
しかしこれらはそこまで信頼できるものではありませんでした.
ウィンクラーはタンから溶存酸素を精密に定量する新たな方法を考案するよう提案され,のちにウィンクラー法と呼ばれる溶存酸素の定量法を開発しました.
ウィンクラーが開発した方法は次のとおりです.
まず水サンプルをボトルに入れ,すぐにヨウ化カリウムKIの溶けたNaOH水溶液と,塩化マンガンMnCl2水溶液を入れます.
そうすると,溶存酸素によりMn(OH)2が酸化され,水酸化マンガンMn(OH)3が沈澱します.
反応が落ち着いたら酸*13を入れます.すると沈澱物が再び溶解します.
このときヨウ化物イオンとMn3+が反応してヨウ素が生じ,
黄色に着色された液体が得られます.
次に,生じたヨウ素をチオ硫酸ナトリウム水溶液で滴定します.
以上により,溶存酸素を定量することができます.
当初は滴定はなかった実験室の設備でしかできず,3時間以内に水酸化マンガンMn(OH)3を含む溶液を持ち帰らなければいけませんでした.そこでウィンクラーの学生となったRezső Maucha (1882-1964) は実験操作を改良し,1920年代には小スケールであれば野外でも試験できるようになりました.
さて,天然水には亜硝酸イオンNO2-が含まれている場合があります.この場合,NO2-とヨウ化物イオンI-が反応してしまいます.
生じた一酸化窒素は再び亜硝酸イオンを生じ,さらにヨウ化物イオンを消費してしまいます.
そうするとヨウ素が余計に増えてしまうので,滴定結果が変わってしまいますね.
そこで,1901年にRidealとStewartは過マンガン酸カリウムで亜硝酸イオンを事前に酸化することを提案し*14ました.
その後も色んな方法が報告されましたが,もっともシンプルかつ効果的だったのは1925年にG. Alsterbergが報告したアジ化ナトリウムNaN3*15を用いる方法です.
過マンガン酸カリウムのように,余分なアジ化ナトリウムを分解させなくても良いのが利点です.
後年,硫酸マンガンMnSO4,水酸化ナトリウムNaOH,ヨウ化ナトリウムNaI,アジ化ナトリウムNaN3を入れ,水酸化マンガンMn(OH)3の沈殿を硫酸で溶解させてからチオ硫酸ナトリウム溶液で滴定する方法が確立しました.
4.まとめ
こうして発展したヨウ素滴定は,有機化学分野にも応用されました.
例えば1876年にはフェノールの臭素化を利用し,過剰な臭素の量をヨウ素滴定によって調べることでフェノールが定量され,
1884年には油脂に含まれる不飽和結合の程度を調べるヨウ素価の測定に用いられました*16.
ウィンクラーは脂質のヨウ素,臭素価という概念を導入し,ヨウ素や臭素,塩素などの定量法を次々に開発しました.こうして高度に発展したハロゲンの分析化学はハンガリー科学の代名詞になりました.
次回は過マンガン酸塩滴定です.
参考文献
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*1:天王星を発見したWilliam Herschel (1738-1822) の息子です.
*2:チオ硫酸ナトリウムそのものは,1799年にパリ大学のChaussierが合成・単離していました.
*3:もともと化学者としてポストを得たかったようです.
*4:水彩の風景画に表や裏から照明をあてて昼や夜の風景をみせていました.
*5:デンプンは用いなかったようです.
*6:市販の臭素には塩素が混じっていたらしいので,KBrとK2Cr2O7を反応させて用意しました.
*8:当時ヨウ素は高価だったため,炭などが混入していたようです.
*9:ちなみにMohrはヨウ素酸化滴定においても逆滴定を行っています.過剰なヨウ素を定量するために亜ヒ酸で滴定しました.
*10:他にも,クロロホルムを少量入れておくと最近の繁殖を防ぐことができます.
*11:1890年にMax Grögerにより考案されました.
*12:窒素ガスでカバーするのも有効です.
*13:塩酸だと測定結果に誤差が生じることは翌年ウィンクラー自身が報告しています.硫酸やリン酸などが用いられました.
*14:余計な過マンガン酸カリウムはシュウ酸と反応させました.
*15:N3で表されるジアゾ基は1866年,GriessによってフェニルアジドC 6 H5N3として発見されました.1890年にはCurtiusによってアジ化水素HN3が発見されていました.アジ化ナトリウムの簡単な合成法は,1892年Wilhelm Wislicenus (1861-1922) によって報告されました.当初ジアゾ基は三員環を作るとも考えられていました.
*16:本来反応はきわめてゆっくりしか進まないのですが,塩化水銀を利用し,反応を早めたようです.